吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)は、安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。
生涯
豊後国の戦国大名・大友氏の家臣で屋山城城主・吉弘鎮信の子として誕生。幼名は松市太郎。はじめ統運と名乗り、天正11年(1583年)に統幸と改めた。
天正6年(1578年)の耳川の戦いで、父・鎮信が戦死すると、家督を継いだ[7]。以後、衰退する大友氏の勢力挽回を目指し忠誠を尽くす。父の鎮信同様、平時は筧城により、詰城として屋山城[8]を保持していた。これは、叔父の高橋紹運も同様な構成(平時の岩屋城と、要害の宝満城)をとっている事から、この地方特有の戦略であったと思われる。また、天正7年(1579年)の主君の大友義統が統幸にあてた書状の中で、義統は反旗を翻すと想定される田原本家に備えるため、秘密裡に屋山城を堅固に修築するよう要請しており、はたして天正8年(1580年)の田原親貫が反乱を起こすと、鞍懸城の攻略などで活躍した[9][10]。天正10年(1582年)下毛郡(現中津市付近)の悪党を撃退する[11]。天正11年(1583年)改名統幸[12]。
その後、大友氏が豊臣秀吉の傘下となり、豊臣氏による天正14年(1586年)の戸次川の戦いに後備軍として従軍するも敗戦、その際に島津軍の追撃を受ける主君・義統や長宗我部軍、仙石軍らを救援し、祇園川原の戦いで三百の手勢を分け、一陣は鉄砲、二陣は弓、三陣は長槍の三段構えの陣を指揮し殿軍となって、島津軍の川渡りを中断させ、義統を高崎山城、豊前竜王城へと逃し、島津軍の府内侵攻を一日遅らせた[13]。
ところが、天正20年(1592年)に参陣した文禄の役での主君・義統の失態により大友氏は改易された。統幸は豊前国中津の黒田如水に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に預けられた。後に従兄弟である柳川城主・立花宗茂の下へ身を寄せ、これに2,000石で仕え、慶長の役においては立花軍の4番隊を任された。文禄5年(1596年)の『文禄五年朝鮮御陣御家中軍役高付騎馬並鉄砲之覚』に「同(鉄砲)十挺 高二千石 吉弘加兵衛」と見える。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると立花家は西軍につくことを表明した。統幸は大友家の当主・大友義乗が徳川家に仕えていたため、大友家の旧恩に酬いようと立花家を暇請いし、義乗の元へ向う。その道中に大友家の再興を狙う前当主・義統と再会し、義乗のこともあり義統に東軍加担を進言するが、義統は聞き入れず西軍に加担したため、統幸もこれに従った。この際、旧領の屋山城に再び拠ったようである。
豊後国奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、細川家の松井康之が守る杵築城を攻め、二の丸まで落とすも黒田軍の援軍が近づいてきたため、攻略を断念。黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突した(石垣原の戦い)。統幸は釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊の攻勢で黒田軍の先鋒隊を大損害に与え母里与三兵衛や時枝鎮継ら率いる先鋒隊を破り、久野次左衛門と曾我部五郎右衛門を戦死させ、自身も朱柄の槍をもって小田九朗左衛門等三十余人の首級を挙げる活躍をし[14]、黒田勢を相手に優位に戦を進めた。
しかし、如水の本軍がいつ到着するかわからないという戦況であったため、全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となっていった。統幸は主君・義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃。七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため自刃して討たれたといわれる。統幸の討死によって大友勢は事実上壊滅し、義統は母里友信を通じて如水に降伏した[15][16]。
その際、屋山城は如水に攻められ、統幸の妻を守るため城兵は僅かな兵力となっても応戦したが、多くは討死したといわれる。なお、統幸は死後、熊本藩士となった子孫によって、大分県別府市にある吉弘神社へと祀られた。
石垣原の戦い前夜に「明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」という辞世を残した。
人物評
吉弘統幸がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり。(黒田家譜により)
日頃より情が厚く、武の道に達しており、大将の器たる人物である。(豊後陣聞書により)
徳川家康による江戸時代に至って、朱槍が許されていた武家は、長坂信政[17]の長坂氏と伊賀倉氏、そして吉弘統幸の吉弘氏3家に限られている[18]。
系譜
脚注
- ^ 田北鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った田北鎮生(しげなり、のち統員に改名)が継承した(実子の鎮述(しげのぶ、日差城主)は早世していたものと思われる)。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年(1632年)には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた。統員の子・統生(むねなり)の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.426 吉弘氏系図 によると、始は田北平介と称す、子に吉弘治右衛門、池部彦允(彦左衛門、治右衛門。池部彦左衛門の養子)、吉弘傳左衛門、女子一名。
- ^ 吉弘七左衛門、臼杵統久、統定、法名一岳。臼杵鎮定養子。
- ^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の側室)と吉弘鎮信の娘・林クインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。
- ^ 大友吉弘氏系図によると、吉弘鎮信と側室・林ジュリア(宗麟の室・奈多夫人の女中頭、のち宗麟の継室となった)の女・利根河道孝室。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』吉弘系図 P.116。隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考
- ^ 『吉弘家分家系図』
- ^ 筑紫上野介広門の養子。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)128 吉弘(重代)家文書 四 大友圓斎(宗麟)書状写 於今度日州高城表、親父加兵衛入道宗仞(鎮信)戦死之次第、忠儀寔無比類候、雖然連々別而無隔心申談候之条、愚老朦氣可有推察候、雖無申迄候、親類与力家中於相残仁者、縦此度無届候共、国家大篇砌侯之間、能々有撫育奉公連続之御覚悟肝要候、可被得其意候、恐々謹言 十二月五日 (後欠) P.409。
- ^ 屋山城は、通称八面山とも呼ばれる豊後高田市の屋山にあったとされる山城。標高543mの天然の要害を利用していた。全長500mの尾根頂部のうち、西側400mあまりにわたり堀切などを設け、直線的配置の郭が形成されている。長い土塁は、西南部に位置する虎口に向かう稜線に沿っており、ここから類推するに屋山城は相当広い縄張りを持っていたようであり、豊後最大の山城「山野城」にも匹敵する。廃城の時期は主君の改易直後と想定されており、それまでは吉弘氏の詰め城であった。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 一〇 大友義統書状 其表弥無事之由、珍重候、方角衆被申談、鞍懸之儀、急度被撫肝要候、然者就浦部表案中、豊前之衆多分内通之子細候、随而小倉表之儀、近日到来共候哉、自然通用之事茂候者、従統運(統幸)有内略、彼家中之者共向後之得失以思慮、此節励忠儀候様、被申達専一候、為存知候、恐々謹言 二月廿九日 吉弘太郎(統幸)殿 P.401。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 一二 大友義統書状 前十三方角衆被申談、至鞍懸被取懸、小屋少々焼崩之由、其聞候、別而粉骨之段、感悦候、南郡衆之事、一昨日十四中途迄出張之条、急度可為着陣候、弥家中之者共、被加諫御馳走肝要候、恐々謹言 閏三月十六日 吉弘太郎(統幸)殿 P.401。
- ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 二五 大友義統書状 下毛表之悪党退散之由、早々示給候、祝着候、雖無申迄候、每事被聞合、切々承、可得其意候、今度以面如申候、出張支度等無油断御心懸肝要候、委細猶重々可申候、恐々謹言 卯月十五日 吉弘左近大夫(統幸)殿 P.404。
- ^ 矢島嗣久 吉弘嘉兵衛統幸について P.98
- ^ 「大友氏顕彰会だより おおとも第29号」[1]
- ^ 統幸自身も朝鮮役で明将・李如松の軍旗を奪った功により秀吉から「無双の槍使い」と賞讃され一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であり、得意の槍を振るって奮戦。矢島嗣久 吉弘嘉兵衛統幸について P.99、都 甲 谷 の 歴 史 - − 六郷満山と吉弘氏 - 豊後高田市 P.61
- ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 大友義統豊後下向付没落之事 P.585~590
- ^ 大友氏の終焉 石垣原の戦い
- ^ 長坂血槍九郎
- ^ 『舊柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)吉弘統幸 825頁。
参考文献
関連作品
- 書籍
- 『悪名の旗』 - 滝口康彦 (中公文庫 1987:単行本)
- 『武辺の使い道〜猛きなるもの〜吉弘統幸伝』 - 榊山悟 (株式会社ドリームキングダム編集部 2022:単行本)
- マンガ
- 『吉弘統幸 忠義を貫いた豊後最強の武将』- 大分県豊後高田市 (梓書院 2020:単行本)
- 映像
外部リンク