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古賀 裕也(こが ひろや、1940年 - 不詳)は、日本の任侠系街宣右翼、特殊株主、政治活動家。
人物・政歴
事件屋、総会屋として知られる古賀隆助の兄。
長崎県の街宣右翼『領土問題研究会』の荒牧敬三が、1982年12月に結党した政治団体『日本自由民主党』[1]を譲り受け、東京に移し第2代党首になった。
翌1983年4月の東京都知事選挙に『日本自由民主党』公認で初出馬。自由民主党推薦の現職、鈴木俊一が通例に従い無所属で立候補したため、一部の有権者に混同を生じさせ、19,304票を獲得。赤尾敏(19,234票)を上回る3位に着け、減票工作は成功した。
同年6月の第13回参議院議員通常選挙には当初、『日本自由民主党』を確認団体として新設の比例代表区に9名の候補者を送る予定だったが、中央選挙管理会によって却下され、東京都選挙区から原田興(はらだ おき)を擁立したのみに留まった。
また同年12月の第37回衆議院議員総選挙では、旧東京1区から北嶋雅彦を、旧長崎2区から小林建を、各々『日本自由民主党』公認候補として擁立。更に古賀本人も、常連候補の田尻容基(伯夷叔斎得仁会、日本文化始租王仁博士顕彰会等)から譲り受けた『日本公明党』の公認候補として旧東京3区から出馬し、グループの総力を結集して創価学会及び池田大作批判を展開した。
「鶴タブー」に正面から挑んだ主張は一部の有権者に受け入れられ、『日本自由民主党』『日本公明党』の公認候補は全員落選したものの、居並ぶ諸派候補の中にあって最上位に食い込む健闘を見せた。古賀の選挙対策事務所に「秋谷栄之助」名義で賛助金が届けられる等の珍事も生じ、週刊誌ネタになった。
その後、1986年の衆参同日選挙に参院選(比例代表区)から『日本公明党』を確認団体申請したが、中央選管に再却下され、代わりに衆院選(中選挙区)で候補者擁立を画策したものの、結局出馬断念に追い込まれた。これと前後して『全国人権擁護連盟』委員長を名乗る古賀が、東北歯科大学(現奥羽大学)に対する恐喝で摘発され、以降沙汰止みになっている。
参考
脚註
- ^ 自由民主党(自民党)とは別物
- ^ 大嶋組舎弟と自称しているが、山口組内の肩書を間違えるなど内容の信憑性に疑問が残る
関連項目
外部リンク