劉雲(りゅう うん)は、紀元前1世紀の中国、前漢時代の東平王である。生年不明、没年は建平3年(紀元前4年)。在位は鴻嘉元年(紀元前20年)から建平3年(紀元前4年)。死後、煬王(ようおう)と諡された。
父は宣帝の子で東平王の劉宇。妻を謁といい[1]、子に劉開明(中国語版)と劉信[2]、劉璜、劉恢、劉褒、劉且、劉鯉、劉允がいた[3]。
生涯
鴻嘉元年(紀元前20年)、父の後を嗣いで東平王となった[4]。居摂2年(7年)に子の劉信が反乱を起こしたとき、時の権力者王莽は、劉雲は父を毒殺して鉅鼠(大ネズミ)と呼んだと非難した[5]。
哀帝の治世になってから(紀元前7年以降)、治下の無塩県の危山の土が盛り上がって草を覆い、馳道のようになり、瓠山で石が転がり立った[6]。劉雲と妃の謁は、現地で石を祭った[7]。帰って東平国の宮中に、瓠山をかたどった石の山を造り、そこに石を立て、倍草を束ねて祠った[7]。倍草はメガルカヤという茅で、茅を束ねて神のかたしろを作り、それを祀ったのである。
建平3年(紀元前4年)3月、孫寵と息夫躬が、この祭祀を皇帝を祝詛(呪詛)するものだと告発した[1]。哀帝は、この告発を寵愛する董賢の手柄にするために、文書を改竄して董賢が取り次いだことにした[8]。獄で取り調べを受けた謁は、巫(神官)の傅恭と婢の合歓にこの神を祭らせて皇帝を呪い、劉雲を天子にするよう求めたと自白した[7]。また、劉雲が、災異を予知する能力を持つ高尚と星宿を指し、哀帝が病で死に劉雲が天下を得ると言い、石が立ったのは宣帝が立った表れだと語ったとも証言した[7]。役人は王を誅するよう求めた[7]。
廷尉の梁相らは劉雲の無罪を疑い、改めて取り調べるため身柄を都の長安に移そうとしたが、そのために哀帝の怒りを買い、みな罷免された[9]。
哀帝は東平王を廃し劉雲を房陵に移すよう詔を出した[7]。劉雲はこの年のうちに自殺し[4]、謁は棄市(斬首してさらし首)になった[7]。
建平4年(紀元前3年)8月に哀帝は事件の功で董賢らを列侯に封じた[10]。丞相の王嘉は劉雲の無実を疑い、梁相らの復織を求めて罷免され、元寿元年(紀元前2年)に獄死した[11]。
哀帝が病死して平帝に代わった後、実権を握った王莽のはからいで、元始元年(1年)に子の劉開明が東平王に封じられた[7]。
脚注
- ^ a b 『漢書』巻83、佞幸伝第63。ちくま学芸文庫版『漢書』7、528頁。
- ^ 『漢書』巻84、翟方進伝第54。ちくま学芸文庫版『漢書』7、158頁。
- ^ 『漢書』巻15下、王子侯表第3下。
- ^ a b 『漢書』巻14、諸侯王表第2、東平思王宇の行。
- ^ 『漢書』巻84、翟方進伝第54。ちくま学芸文庫版『漢書』7、166頁。
- ^ 『漢書』巻80、宣元六王伝第50。ちくま学芸文庫版『漢書』7、23頁。
- ^ a b c d e f g h 『漢書』巻80、宣元六王伝第50。ちくま学芸文庫版『漢書』7、24頁。
- ^ 『漢書』巻86、何武王嘉師丹伝第56。ちくま学芸文庫版『漢書』7、239頁。
- ^ 『漢書』巻86、何武王嘉師丹伝第56。ちくま学芸文庫版『漢書』7、247頁。
- ^ 『漢書』巻18、外戚恩沢侯表第6、高安侯董賢の行以下。
- ^ 『漢書』巻86、何武王嘉師丹伝第56。ちくま学芸文庫版『漢書』7、247 - 251頁。年は『漢書』巻18、外戚恩沢侯表第6、新甫侯王嘉の行。
参考文献
関連項目