劉 玉書(りゅう ぎょくしょ、1885年9月 – 没年不詳)は、中華民国の軍人・政治家・実業家。北京政府では軍人として、蔣介石の国民政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会では文官として各職を歴任している。また、華北電信電話(華北電電)の幹部も務めた。
事績
日本に留学し[3]、陸軍士官学校を卒業[1][2]。帰国後は北京政府で蘇常鎮守使参謀長、大総統府侍従武官、五省聯軍司令部参謀処長、淞滬警察庁長、淞滬衛生局長などを歴任し、陸軍中将まで昇進した[2]。
国民政府成立後の1934年(民国23年)、劉玉書は天津市公安局長に就任し[3]、翌年には工務局長も兼ねた[4][5]。劉は冀察政務委員会で外交委員会委員を務め[6]、盧溝橋事件後の1937年(民国27年)8月1日に成立した天津治安維持会(委員長:高凌霨)では委員に就任した[7]。
王克敏らによる中華民国臨時政府創設に劉玉書も参与し、1938年(民国27年)4月13日、行政部参事に任命されるが[8]、同年8月8日には辞職している[9]。辞職と同月には、日本の国策会社北支那開発及び中支那振興両社の子会社として発足した華北電信電話(華北電電)の取締役理事に就任し[1][10]、1943年(民国32年)6月29日まで在任した[11]。
1943年2月8日、劉玉書は北京特別市市長に任命され[1][12][13]、華北政務委員会に参加する形で政界復帰した。また、同委員会では華北河渠委員会委員[5]や農務総署糧食管理局局長も兼任している[14]。1945年(民国34年)2月20日、北京特別市長を辞任し(後任は許修直)[12]、翌月に華北政務委員会委員に任ぜられた[5][15]。また、華北電電にも復帰し、取締役兼副総裁に選出された[16]。
日本敗北後の同年12月5日、劉玉書は北平で漢奸として逮捕され、南京へ護送された[17]。翌1946年(民国35年)10月31日、首都高等法院で懲役15年・公民権剥奪10年・家族生活費以外の財産没収を言い渡されている[18][19]。
以後、劉玉書の行方は不詳である。
脚注
- ^ a b c d e 『大阪朝日新聞』1943年2月9日。
- ^ a b c d 満蒙資料協会編(1940)、1544-1545頁。
- ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015592100、在本邦留学生便宜供与(入退学、見学、実習等)関係雑件/警察関係 第五巻(B-H-05-06-00-01-04-00-05)(外務省外交史料館)、4頁。
- ^ 劉寿林ほか編(1995)、1001頁。
- ^ a b c 劉国銘主編(2005)、465頁。
- ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111462000、冀察案内 昭和12年3月1日(防衛省防衛研究所)、12頁。
- ^ 「治安維持会成立」『同盟旬報』1巻5号、昭和12年8月上旬号、同盟通信社、2頁。
- ^ 臨時政府令、令字第13号、民国27年4月13日(『政府公報』第13号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年4月18日、1頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第242号、民国27年8月8日(『政府公報』第30号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年8月15日、1頁)。
- ^ 逓信報告社『逓信総合職員録』昭和18年、549頁。
- ^ 北電会編(1976)、106-107頁。
- ^ a b 劉寿林ほか編(1995)、1139頁。
- ^ 『同盟時事月報』7巻2号通号201号、昭和18年3月14日、104頁。
- ^ 1943年3月8日就任(『日文国民政府彙報』173号、1943年4月26日、中国和文出版社、8頁)。翌1944年1月に辞任した(『同盟時事月報』8巻1号通号212号、1944年2月14日、同盟通信社、118頁)。
- ^ 劉寿林ほか編(1995)、1059頁。
- ^ 北電会編(1975)、108頁。
- ^ 益井(1948)、19頁。
- ^ 余ほか編(2006)。
- ^ 益井(1948)、131頁。
参考文献