幾地(いくじ)は、京都府与謝郡与謝野町の大字。2015年(平成27年)時点の人口は1296人。
地理
野田川が形成した加悦谷の北西部に位置し、集落の南側を野田川支流の岩屋川が流れる[1]。野田川町の北西部に位置し、大宮町と接している[2]。
東には四辻が、南には三河内がある。集落内を東西に京都府道2号宮津養父線が通り、大宮町上常吉に抜ける平地峠(平治峠)に向かって、京都府道2号から京都府道76号野田川大宮線が分岐している[2]。
- 河川
歴史
近世
中世には当地で市が開かれていたとされる[1]。中世山城として香久山勝右衛門の香久山城や石川左衛門尉秀門の伊久知城(幾地城)があったが、香久山は1579年(天正7年)に、伊久知城は1582年(天正10年)に、いずれも細川幽斎に滅ぼされた[1]。安土桃山時代の盗賊である石川五右衛門は伊久知城で生まれたとする伝承がある。
江戸時代には丹後国与謝郡幾地村であり、当初は宮津藩領だったが、寛文6年(1666年)に幕府領、寛文9年(1669年)に宮津藩領、延宝8年(1680年)に幕府領、天和元年(1681年)に宮津藩領と遷移した[1]。村高は『慶長郷村帳』や『延宝郷村帳』によると1038石余、『天和村々高帳』や『宝永村々辻高帳』によると1307石余、『享保郷村帳』や『天保郷帳』によると1311石余、『旧高旧領』によると1307石余だった[1]。
加悦谷は丹後ちりめんなどの機業が盛んであり、幾地村の織機数は明和3年(1766年)に3機、享和3年(1803年)に17機、文化年間(1804年~1818年)に8機、嘉永年間(1848年~1854年)に26機、文久年間(1861年~1864年)に34機などだった[1]。天保14年(1843年)の戸数は123戸だった[1]。『与謝郡誌』によると、幕末の戸数は116戸、人口は524人であり、うち百姓70軒、水呑36軒だった[3]。
近代
1869年(明治2年)の戸数は114戸であり、人口は521人だった[1]。1871年(明治4年)には宮津県に属し、その後豊岡県を経て、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた[1]。
1889年(明治22年)4月1日には町村制の施行により、四辻村・幾地村・岩屋村が合併して与謝郡市場村が発足した[1]。市場村の大字として幾地が置かれている[1]。
1927年(昭和2年)3月7日に発生した北丹後地震では、幾地の大半の家屋が全壊し、約8割もの家屋が焼失した[1]。
現代
1955年(昭和30年)3月1日、市場村・三河内村・岩屋村・山田村・石川村が合併して野田川町が発足した。野田川町の大字として幾地が置かれている。戦前から昭和40年代初頭にかけて、幾地には劇場・映画館の市場劇場があった[4][5][6]。1964年(昭和39年)の『映画便覧』によると経営者は矢野豊雲であり、木造2階建で定員350の映画館だった[7]。『映画便覧』には1967年(昭和42年)版まで掲載されている。
1982年(昭和57年)時点の世帯数は328世帯、人口は1261人[2]。
2006年(平成18年)3月1日、野田川町・加悦町・岩滝町の3町が合併して与謝野町が発足した。与謝野町の大字として幾地が置かれている。
施設
名所・旧跡・観光スポット
- 香久山古墳 - 標高70メートルの香具山の山頂にある円墳。
- 地蔵山遺跡 - 室町時代・戦国時代の庶民火葬墓地[8]。東西約250メートル、南北約200メートルに渡って[8]、文明28年(1486年)の銘のある宝篋印塔1基、五輪塔50基、阿弥陀仏像109体、地蔵菩薩像など11体が並べられている[1]。
- 深田神社 - 幾地の氏神。養蚕・穀物の神である和久産巣日神を祭神とし、穀類のほかに繭を模したものを供える風習がある[9]。江戸時代には加悦谷祭の際に能狂言が行われ、また神楽による五穀豊穣の祈祷も行われていた[9]。
- 中村神社
- 養源院 - 臨済宗の寺院。山号は大悲山。慶長7年(1602年)創立[1]。
- 香久山城址 - 幾地南端にある山城。香久山勝右衛門の居城。1579年(天正7年)に細川幽斎に滅ぼされた。
- 伊久知城址(幾地城址) - 幾地北部の標高160メートルの山にある山城[8]。石川左衛門尉秀門の居城。1582年(天正10年)に細川幽斎に滅ぼされた。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』角川書店、1982年、p.109
- ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年、p.702
- ^ 『与謝郡誌』与謝郡小学校長会、1936年
- ^ 中村留蔵『与謝年鑑 昭和二十八年版』橋立新聞社、1953年、pp.159-160
- ^ 山添輝一『四辻郷土史』八幡神社社務所、1956年、p.254
- ^ 文献において市場劇場は四辻にあったとされるが、実際には現在の幾地にあった。
- ^ 『映画年鑑 1964年版 別冊 映画便覧 1964』時事通信社、1964年。
- ^ a b c 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年、pp.719-720
- ^ a b 野田川町『野田川町誌』野田川町、1969年、p.568
参考文献
- 『与謝郡誌』与謝郡小学校長会、1936年
- 野田川町誌編集委員会『野田川町誌』 野田川町、1969年
- 『日本歴史地名大系 26 京都府の地名』平凡社、1981年
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』角川書店、1982年
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
四辻に関連するカテゴリがあります。
{{DEFAULTSORT:いくし}}
[[Category:与謝野町の地理]]