分部 光忠(わけべ みつただ)は、江戸時代中期の大名。近江国大溝藩5代藩主。分部家6代。官位は従五位下・左京亮。
生涯
元禄11年(1698年)7月21日[2]、4代藩主・分部信政の三男として[1][2]、近江国大溝で誕生[1]。母は側室の渡辺氏[1]。庶出の三男であるが、嫡出長子の信秋はすでに元禄9年(1696年)に没しており[1]、次兄も早世していたため[1]、嫡子(嗣子)となる[1]。宝永元年(1704年)7月1日、11歳で徳川綱吉に御目見[1]。
正徳4年(1714年)6月23日、父の隠居により跡を継いだ[1](父は同年12月18日に没[1])。同年12月18日、従五位下左京亮に叙任[1]。正徳5年(1715年)4月15日にはじめての国入りのための暇を与えられた[1]。
享保16年(1731年)3月14日に死去[1]。享年34[1]。
跡を長男・光命が継いだ。
系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
- 父:分部信政
- 母:加藤氏
- 正室:田村誠顕の娘
- 側室:谷氏
- 側室:某氏
- 側室:某氏
- 二男(3):恒河忠徳 - 孫左衛門。家臣となる
- 二女(4):山本実覩室
- 三男(5):長野忠睍 - 主税。家臣となる
- 四男(6):長野忠栄 - 幸左衛門。家臣となる
- 三女(7):上田義敷(広島藩家老)の妻
- 五男(8):渡辺久龐 - 渡辺久琛の養子
- 四女(9):沢井元直(家臣)養女
補足
- 娘の嫁ぎ先のうち、姉小路公文(大納言)、山本実覩(中納言)は公家である[1]。
- 三女が嫁いだ上田義敷(主水)[3]は広島藩家老。上田主水家は上田重安(宗箇)の二男の子孫に当たり(ただし養子による継承がある)、茶道の上田宗箇流家元を継承する家の当主である[4]。
- 五男が養子に入った渡辺家は1500石の旗本で[5]、分部家とは遠戚にあたる。近世大名としての分部家初代にあたる分部光嘉の長女が、渡辺家の祖先・渡辺久勝に嫁ぎ、久勝の娘は分部光信(光嘉の養子。大溝藩初代藩主)室となっている[6](分部光信#系譜参照)。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク
分部氏 大溝藩5代藩主(1714年 - 1731年) |
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