分部光忠

 
分部光忠
時代 江戸時代中期
生誕 元禄11年7月21日1698年8月26日
死没 享保16年3月14日1731年4月20日
改名 光重(初名)[1]→光忠
別名 熊之助[1]、隼人(通称)[1]
戒名 通霄院殿鶴山浄滄大居士[1]
墓所 滋賀県高島市大溝の円光寺
官位 従五位下左京亮
幕府 江戸幕府
主君 徳川家継吉宗
近江大溝藩
氏族 分部氏
父母 父:分部信政 母:加藤氏
兄弟 信秋光忠河鰭実詮室、伊東祐崇正室ら
正室:田村誠顕
側室:谷氏 ほか
光命恒河忠徳長野忠睍長野忠栄
渡辺久龐姉小路公文室、山本実観室、
上田義敷室、沢井元直養女
テンプレートを表示

分部 光忠(わけべ みつただ)は、江戸時代中期の大名近江国大溝藩5代藩主。分部家6代。官位従五位下左京亮

生涯

元禄11年(1698年)7月21日[2]、4代藩主・分部信政の三男として[1][2]、近江国大溝で誕生[1]。母は側室の渡辺氏[1]。庶出の三男であるが、嫡出長子の信秋はすでに元禄9年(1696年)に没しており[1]、次兄も早世していたため[1]、嫡子(嗣子)となる[1]。宝永元年(1704年)7月1日、11歳で徳川綱吉に御目見[1]

正徳4年(1714年)6月23日、父の隠居により跡を継いだ[1](父は同年12月18日に没[1])。同年12月18日、従五位下左京亮に叙任[1]。正徳5年(1715年)4月15日にはじめての国入りのための暇を与えられた[1]

享保16年(1731年)3月14日に死去[1]。享年34[1]

跡を長男・光命が継いだ。

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

  • 父:分部信政
  • 母:加藤氏
  • 正室:田村誠顕の娘
  • 側室:谷氏
    • 長男(1):分部光命 - 嫡母(父の正室)田村氏に養われる[1]
  • 側室:某氏
  • 側室:某氏
    • 二男(3):恒河忠徳 - 孫左衛門。家臣となる
    • 二女(4):山本実覩
    • 三男(5):長野忠睍 - 主税。家臣となる
    • 四男(6):長野忠栄 - 幸左衛門。家臣となる
    • 三女(7):上田義敷(広島藩家老)の妻
    • 五男(8):渡辺久龐 - 渡辺久琛の養子
    • 四女(9):沢井元直(家臣)養女

補足

  • 娘の嫁ぎ先のうち、姉小路公文(大納言)、山本実覩(中納言)は公家である[1]
  • 三女が嫁いだ上田義敷(主水)[3]は広島藩家老。上田主水家は上田重安(宗箇)の二男の子孫に当たり(ただし養子による継承がある)、茶道の上田宗箇流家元を継承する家の当主である[4]
  • 五男が養子に入った渡辺家は1500石の旗本で[5]、分部家とは遠戚にあたる。近世大名としての分部家初代にあたる分部光嘉の長女が、渡辺家の祖先・渡辺久勝に嫁ぎ、久勝の娘は分部光信(光嘉の養子。大溝藩初代藩主)室となっている[6]分部光信#系譜参照)。

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.7
  2. ^ a b 分部光忠”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8
  4. ^ 歴代家元”. 公益財団法人上田流和風堂. 2022年1月5日閲覧。
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.521
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百八十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.519-520

参考文献

外部リンク

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!