二条 栄子(にじょう えいし/えいこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女性。後醍醐天皇の女御。
生涯
関白左大臣を務めたこともある二条道平と、従二位蔭子(藤原蔭子)との間に誕生(『皇代暦』巻4「後醍醐天皇」)[1]。
建武の新政が始まって約半年後の元弘3年(1333年)12月28日、後醍醐天皇の女御となった(『皇代暦』巻4「後醍醐天皇」、原文では「元弘二年」だが『大日本史料』編纂者により訂正)[1]。これは後醍醐皇女の祥子内親王が伊勢神宮斎宮に卜定(決定)したのと同じ日である(『皇代暦』巻4「後醍醐天皇」)[1]。
延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)に後醍醐が崩御した後、その年の10月に、慈道法親王(後醍醐の叔父)のもと落飾(出家)した(『風雅和歌集』雑下)[2]。このとき、慈道が哀しみのあまり詠んだ歌が『風雅和歌集』雑下に入集している[1]。尊円法親王(慈道の次の代の青蓮院門跡)も返し歌を詠んでいる[2]。
安福殿と称した(『尊卑分脈』)[2]。その後は不明。
脚注