中西深斎

中西 深斎(なかにし しんさい、1725年1月19日享保9年12月6日) - 1803年5月13日享和3年3月22日))は江戸時代中期-後期の医師[1]。名は惟忠、字は子文[2]。通称は主馬、万助[1]。祖先は伊賀十八族で曾祖父のときに京都に移る[2]。父は中西宗律、母は高谷氏[2]中西鷹山は子[1]

経歴・人物

京都に生まれる[1][2]。幼少時から読書を好む[2]江戸鵜殿士寧らと学を磨きあったのち、京に戻り吉益東洞の門にはいり古医方をまなぶ[2]。中国の張仲景の医書『傷寒論』を30年間研究し、注釈書『傷寒論弁正』『傷寒名数解』を著した[1]

脚注

  1. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『中西深斎』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『中西深斎』 - コトバンク

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