中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年1月6日)[1] - 大正15年(1926年)2月20日[1])は、第四代住友総理事である。
経歴
出羽国(秋田県)秋田郡大館町出身[1]。1890年(明治23年)東京帝国大学卒業[1]。同年横浜始審裁判所判事に任官[1]。東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長、水戸地方裁判所所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長に就任[1]。1900年(明治33年)大学の3年先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入り[1]、1902年(明治35年)別子鉱業所支配人となる[1]。1903年(明治36年)本店理事となり[1]、1909年(明治42年)商工視察のため欧米へ出張し[1]、1910年(明治43年)からは銀行支配人を兼務した[1]。1912年(明治45年)銀行を株式会社に改組し、その実質的トップである常務取締役を兼務した[1]。
1915年(大正4年)鋳鋼所(日本製鉄の前身)、1919年(大正8年)には大阪北港(住友土地工務の前身)、1920年(大正9年)電線(現、住友電工)・日本電気の各取締役に就任した[1]。1922年(大正11年)鈴木馬左也の後をついで住友合資総理事に就任[1]。1924年(大正13年)北海道の坂炭坑を買収し[1]、1925年(大正14年)住友坂炭坑(住友石炭鉱業の前身)を設立[1]。同年大阪市の公設市場設立に応じ、安治川の住友伸銅所(住友金属の前身)と住友倉庫の敷地約2万7000坪を同市に譲渡[1]。4月には住友製品の販売店を神戸と名古屋に設置(住友商事の前身)、6月には肥料製造所(住友化学の前身)を株式会社とし、大阪の日之出生命(住友生命の前身)を買収[1]。7月には住友信託銀行を設立し、住友銀行、大阪商船、住友倉庫、日本電気、東亜興業などの取締役を兼任した[1]。
1926年(大正15年)2月20日、肺気腫のため死去[1]。
出典
関連項目
外部リンク