ヴェニアミン・マンドリキン

ヴェニアミン・マンドリキン
名前
本名 ヴェニアミン・アナトーリエヴィチ・マンドリキン
Veniamin Anatolyevich Mandrykin
ラテン文字 Veniamin Mandrykin
ロシア語 Вениамин Анатольевич Мандрыкин
基本情報
国籍 ロシアの旗 ロシア
生年月日 (1981-08-30) 1981年8月30日
出身地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦オレンブルク
没年月日 (2023-08-06) 2023年8月6日(41歳没)
身長 188cm
体重 83kg
選手情報
ポジション GK
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2001 ロシアの旗 アラニア・ウラジカフカス 46 (0)
2001-2011 ロシアの旗 CSKAモスクワ 69 (0)
2008 ロシアの旗 トム・トムスク (loan) 21 (0)
2009 ロシアの旗 ロストフ (loan) 10 (0)
2010 ロシアの旗 スパルタク・ナリチク (loan) 0 (0)
2010 ロシアの旗 ディナモ・ブリャンスク (loan) 12 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヴェニアミン・アナトーリエヴィチ・マンドリキンロシア語: Вениамин Анатольевич Мандрыкин1981年8月30日 - 2023年8月6日[1])は、現ロシアオレンブルク州オレンブルク出身のサッカー選手。ポジションはGK

経歴

初期の経歴

1981年、現ロシアのオレンブルクで生まれた。幼少の頃にウラジカフカスに引越しFCアラニア・ウラジカフカスのアカデミーに入団した。サッカーを始めた当初はFWに興味を持っていたが身長が伸びると共にゴールキーパーへ変更。13歳の時にはサッカーへの情熱が冷め一度は退団をするがコーチのヴァレリー・ゴロホフの説得されアメリカで開かれたユースの大会に出場。そこで勝利を収め、真剣にサッカーに打ち込むようになった。

FCアラニア・ウラジカフカス

1997年にアラニア・ウラジカフカスでキャリアを始め、1998年にはユースオリンピックに出場した。クラブでは長年正GKを務めていたザウル・ハロフが退団したのを契機に正ゴールキーパーを務めることになった。1998年から2000年まではUEFA U-21欧州選手権の予選に出場し、同組のフランスが1位になったため本選出場を逃したが、この予選でのプレーが海外のスカウトから注目を集めた。2000年1月にはフランスのFCジロンダン・ボルドーに招待され10日間トレーニングをした。

PFC CSKAモスクワ

2001年、PFC CSKAモスクワに移籍をした。CSKAではセルゲイ・ペルフンが正GKであったが試合中の事故により亡くなる。ペルフン亡き後は正GKとして出場。2002年は怪我をして、シーズン中盤に差し掛かった夏にロシア代表のルスラン・ニグマトゥーリンが加入してポジションを奪われる。半年のレンタルであった為にニグマトゥーリンはクラブを去るが、2003年にも怪我をし、それ以後はイゴール・アキンフェエフがCSKAの正GKとして君臨した。2007年5月にはアキンフェエフがFCロストフ戦で膝の大怪我を負い、半年間の離脱を余儀なくされた為に、その穴埋めとして20試合に出場した[2]

2008年から2010年までは出場機会を求めてFCトム・トムスクFCロストフPFCスパルタク・ナリチクFCディナモ・ブリャンスクにレンタル移籍をした。

代表

2003年2月12日、キプロス代表戦でロシア代表デビューを果たした。

2003年4月30日、ジョージア代表との試合に招集され出場したが、これ以後代表には招集されていない。

事故

2010年11月10日、マンドリキンはブリャンスク市内を女性二人と同僚のマクシム・フョードロフ、マラト・マグケーイェフらと共にで走行中に速度違反をして警察の追尾を受けた。さらに速度を上げたその5分後に車のコントロールを失い木に激突[3][4]。警察発表によるとマンドリキンは酔っていた。女性二人は骨折などの重傷を負い同僚二人は軽症であった。マンドリキンは脊髄を損傷して重体に陥り、市内の病院へ搬送され手術を受け、2011年2月中旬まで集中治療室で過ごした[5]。2011年6月頃になると徐々にではあるが回復していき、9月にインタビューに答えた時は病院関係者やクラブのサポートに感謝を述べた[6]。2011年11月10日、リハビリテーションセンターに移った[7]

脚注

参考文献

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!