マリー・タリオーニ

マリー・タリオーニ。ヨーゼフ・クリーフーバー画。1839年。

マリー・タリオーニMarie Taglioni, 1804年4月23日 - 1884年4月22日)は、ロマンティック・バレエ時代を代表するスウェーデンイタリアバレエダンサーである。父はバレエダンサーで、ロマンティック・バレエを先導した振付家であるフィリッポ・タリオーニ(Filippo Taglioni, 1777年 - 1871年)。母は、スウェーデンオペラ歌手クリストファー・カルステン(Christoffer Christian Karsten)の娘ソフィー(Sophie Karsten)。

プロフィール

ストックホルムで生まれる。タリオーニ家はダンスの名門で、親戚に名の知られたバレエダンサーが多かった[1]

幼い頃からバレエを学び、17歳からは父の厳しい訓練によって高度なテクニックを習得し、1822年ウィーンで初舞台を踏んだ。以来、ドイツ、イタリアなどで踊る。

マリー・タリオーニ。

1827年パリ・オペラ座で初舞台。1831年にはジャコモ・マイアベーアが作曲し、父フィリッポ・タリオーニが振付た『悪魔のロベール』の「死んだ尼僧たちの踊り」でバレエ・シーンの主役を踊って好評を得た後、1832年オペラ座で同じく父の振付による『ラ・シルフィード(空気の精)』の主役を演じて大成功を収め、その名を不朽のものとした。この作品において初めてチュチュが用いられたこと、ポワント(つま先)で立ったことが記録されている。『ラ・シルフィード』は彼女の別称ともなり、空中を舞うように踊り、精霊や妖精のような異界の役柄を得意とするダンサーであった。

1836年、父の振付で『ドナウの娘』の主役を初演したのち、パリを離れる。1837年から5年間はロシアサンクトペテルブルクで踊って成功した。ヨーロッパ各地で踊り、絶賛される。1847年に引退し、ヴェネツィア近郊に住んだ[2]

晩年、経済的な行き詰まりから、ロンドンへ移って、1871年から1880年までバレエ教師として生計をたてた[3]1880年からはマルセイユの息子のもとに身を寄せ、同地で没する。

エピソード

マリー自身については、背が高く痩せぎすの猫背で容姿に恵まれなかったと伝えられる。性的魅力に欠けたことから、男性ファンの多かったファニー・エルスラーと比較されて「婦人好み」と評された。

脚注

  1. ^ 父方の祖父カルロ(Carlo)、叔父サルヴァトーレ(Salvatore、1789年 - 1868年)、弟のポール(Paul、1808年 - 1884年)、従妹のルイゼ(Louisa、1823年 - 1893年、サルヴァトーレの娘)、姪で彼女と同名のマリー(1833年 - 1891年、ポールの娘)などが舞踊史に名を留めている。
  2. ^ カナル・グランデに面する有名な建築物「カ・ドーロ」は、一時期マリーが所有していた。
  3. ^ この事態は、父フィリッポが彼女の資産を蕩尽してしまったために起こった。

参考文献

関連項目

  • エマ・リヴリー - マリー・タリオーニが引退後、指導に当たったバレエダンサー。彼女はリヴリーのために、「パピヨン」を振付けている。

外部リンク

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