1880年に第1次ボーア戦争が始まると、ポチェフストルームではボーア人が古い砦に立てこもって包囲攻撃を受けた。第2次ボーア戦争では英国によってここに強制収容所が建設され、ボーア人が多数収容された。1909年、市役所の開所の際に招かれたヤン・スマッツは、ポチェフストルームが翌年に建国される予定の南アフリカ連邦の首都になる可能性について述べた。これは実現しなかったが、1869年に建てられたポチェフストルーム大学(現北西大学)を中心に連邦最大の学園都市のひとつとなり、「city of expertise(知識の街)」がポチェフストルームの愛称となった。