ペンタカルボニル鉄 (英 : pentacarbonyliron )、または単に鉄カルボニル (英 : iron carbonyl ) は、化学式 が Fe(CO)5 と表される鉄 の錯体 である。標準状態 で刺激臭をもつ淡黄色のさらさらした液体。有機合成 において有用な、多くの鉄化合物 の前駆体 である[ 1] 。一酸化炭素 と鉄の微粉末から合成される。安価に購入可能である。
性質
ペンタカルボニル鉄はホモレプティック な、つまりすべての配位子 が同じ金属カルボニル である。ホモレプティックな金属カルボニルには、他に八面体形 の Cr(CO)6 や 四面体形 の Ni(CO)4 などがある。ほとんどの金属カルボニルは18電子則 を満たす。Fe(CO)5 は、Fe の8個の価電子 と CO によって供与される5対の電子対によってこれを満たしている。対称的な構造と電気的中性なことを反映して Fe(CO)5 は揮発性であり、最も頻繁に出会う液体の金属錯体の1つである。Fe(CO)5 は、エカトリアル位 に3つ、アキシアル位 に2つの合計5つの CO 配位子に Fe 原子が囲まれた三方両錐形 構造で、Fe-C-O 結合は線形である。
Fe(CO)5 は、NMRタイムスケール でのベリー擬回転 によってアキシアル位とエカトリアル位の CO が素早く入れ替わっているため、典型的な揺動分子 である。非等価な CO 位置の素早い交換のために、13 C NMR スペクトルはただ1つのシグナルを示す。
しばしばペンタカルボニル鉄の分解によってつくられる高純度鉄、カルボニル鉄 と混同されることがある。
他の鉄カルボニルの合成
Fe(CO)5 は、1891年 にルードウィッヒ・モンド とカール・ランガー によって“淡黄色のいくぶん粘性のある液体”とジャーナルに報告された[ 2] 。このサンプルは、酸化物を含まない超微粒子状の鉄粉末を、室温 において一酸化炭素で処理することによって得られた。
Fe(CO)5 の光分解 によって得られた橙色固体 Fe2 (CO)9 もモンドによって報告された。Fe(CO)5 を加熱すると、少量が緑色固体の金属クラスター Fe3 (CO)12 に変化した。しかし、単純な熱分解 は実用的な合成法とは言えない(下記参照)。
鉄カルボニル類はそれぞれ全く別の反応性を示す。
重要な反応
CO 置換反応
何千種類もの化合物が Fe(CO)5 から得られる。ルイス塩基 L による CO の置換によって、誘導体 Fe(CO)5-x Lx が生じる。よく使われるルイス塩基としてはイソシアニド 、第三級ホスフィン 、アルシン 、アルキン などがある。通常これらの配位子は1つまたは2つの CO 配位子と置換するが、PF3 やイソシアニドのような特定のπ-アクセプター配位子は、CO を4置換、5置換できる。これらの反応は、触媒 または光 によって引き起こされる[ 3] 。実例としては、ビス(トリフェニルホスフィン )錯体 Fe(CO)3 (P(C6 H5 )3 )2 の合成がある[ 4] 。この合成は光化学 的に達成されるが、NaOH や NaBH4 を加えることによっても引き起こされる。触媒は CO 配位子を攻撃し、それは置換のための別の CO を不安定化する。Fe(CO)4 L の求電子性 は Fe(CO)5 のそれより小さい。そのため、求核触媒は Fe(CO)5 を攻撃して遊離させる。
酸化と還元
ほとんどの金属カルボニルはハロゲン化 することができる。Fe(CO)5 をハロゲンで処理することで、ハロゲン化物 Fe(CO)4 X2 (X = Cl, Br, I) が得られる。これらの化学種を加熱すると、CO を失って塩化鉄(III) のような単純な鉄のハロゲン化物を生じる。
Fe(CO)5 を金属ナトリウム で還元することで、コールマン試薬とも呼ばれる“テトラカルボニル鉄(-II)酸塩”、Na2 Fe(CO)4 が得られる。このジアニオン Fe(CO)4 2- は Ni(CO)4 と等電子的 だが、求核性 が高い[ 5] 。
酸塩基反応
Fe(CO)5 は容易にはプロトン化 されないが、水酸化物 によって攻撃される。Fe(CO)5 を水溶性塩基 で処理することで [HFe(CO)4 ]- が生じ、これを酸化することで Fe3 (CO)12 が得られる。[HFe(CO)4 ]- の溶液を酸性化 することで H2 Fe(CO)4 が生じる。これは最初に報告された金属水素化物であった。
ジエン錯体
ジエン は Fe(CO)5 と反応して Fe(CO)3 (diene) を与える。Fe(CO)5 中の2つの CO 配位子は2つのオレフィン によって置換される。多くのジエンがこの反応を受け、とりわけノルボルナジエン や1,3-ブタジエン で顕著である。特に歴史的に重要な誘導体 の1つがトリカルボニルシクロブタジエン鉄 Fe(CO)3 (C4 H4 ) で、遊離のシクロブタジエン C4 H4 は不安定である[ 6] 。最も注目されているのはシクロヘキサジエン の錯体で、その親有機体1,4-ジエン はバーチ還元 によって合成可能である。1,4-ジエンは錯形成 により1,3-ジエン に異性化 する[ 7] 。
Fe(CO)5 はジシクロペンタジエン と反応して Fe(C5 H5 )2 (CO)4 となる。“Fp ダイマー”と呼ばれるこの化合物は、反応性はいずれにも似ていないが、フェロセン と Fe(CO)5 のハイブリッドであるとみなすことができる。
他の利用
かつてヨーロッパ では、ガソリン のアンチノック剤 としてテトラエチル鉛 の代わりにペンタカルボニル鉄が使われた。現在の最新の燃料添加剤は、フェロセンとトリカルボニル(シクロペンタジエニル)マンガン(I) である。また、ペンタカルボニル鉄から作られる超微粒子状の鉄粉末“カルボニル鉄 ”が、テレビやラジオの高周波コイルの磁性コアや、いくつかのレーダー吸収材料 の有効成分の製造に用いられる。ペンタカルボニル鉄は、各種の鉄ベースのナノ粒子 合成における原料となる化学物質として有名である。
ペンタカルボニル鉄は、酸素炎中で強力な燃焼抑制剤であることが発見された[ 8] 。数百ppm のペンタカルボニル鉄を添加するだけで、化学量論 のメタン -酸素炎の火炎速度を50 %抑制することが知られている。しかし、その毒性のために難燃剤 としては広くは使われなかった。
毒性と危険
Fe(CO)5 は有毒であり、この揮発性 の高さ(蒸気圧 :21 mmHg at 20 °C )のためにその毒性は重要性を持つ。ペンタカルボニル鉄を吸入すると、肺を刺激し、中毒性肺炎 、あるいは肺水腫 を起こす可能性がある。しかしながら、毒性はテトラカルボニルニッケル ほど高くない。
他の金属カルボニルと同様に Fe(CO)5 は可燃性である。
出典
^ Samson, S. ; Stephenson, G. R. "Pentacarbonyliron" in Encyclopedia of Reagents for Organic Synthesis (Ed: L. Paquette) 2004, J. Wiley & Sons, New York. DOI: 10.1002/047084289.
^ Mond, L. ; Langer, C. (1891). “On iron carbonyls”. J. Chem. Soc., Trans. 59 : 1090–1093. doi :10.1039/CT8915901090 .
^ Therien, M. J; Trogler, W. C.; Silva, R.; Darensbourg, M. Y. (1990). “Bis(phosphine) derivatives of iron pentacarbonyl and tetracarbonyl(tri-tert-butylphosphine)iron(0)”. Inorg. Synth. 28 : 173–9. doi :10.1002/9780470132593.ch45 .
^ Keiter, R. L.; Keiter, E. A.; Boecker, C. A.; Miller, D. R. and Hecker, K. H. (1997). “Tricarbonylbis(phosphine)iron(0) complexes”. Inorg. Synth. 31 : 210–214. doi :10.1002/9780470132623.ch31 .
^ Finke, R. G.; Sorrell, T. N. "Nucleophilic Acylation with Disodium Tetracarbonylferrate: Methyl 7-Oxoheptanoate and Methyl 7-oxooctonoate" . Organic Syntheses (英語). ; Collective Volume , vol. 6, p. 807
^ Pettit, R.; Henery, J. "Cyclobutadieneiron Tricarbonyl" . Organic Syntheses (英語). ; Collective Volume , vol. 6, p. 310
^ Birch, A. J. ; Chamberlain, K. B. "Tricarbonyl[(2,3,4,5-eta)-2,4-Cyclohexadien-1-one]ison and Tricarbonyl[(1,2,3,4,5-eta)-2-Methoxy-2,4-Cyclohexadien-1-yl]Iron(1+) Hexafluorophosphate(1-) from Anisole" . Organic Syntheses (英語). ; Collective Volume , vol. 6, p. 996
^ Lask, G.; Wagner, H. Gg. (1962). “Influence of additives on the velocity of laminar flames”. Eighth International Symposium on Combustion : 432–438
関連項目