ヘルマン・ミンコフスキー またはヘルマン・ミンコウスキー (Hermann Minkowski, 1864年 6月22日 - 1909年 1月12日 )は、ロシア (リトアニア )生まれのユダヤ系ドイツ人 数学者 。彼の提案したミンコフスキー空間 は、アルベルト・アインシュタイン の特殊相対性理論 における「時空 」をエレガントに数学的に表した。また、時空について光円錐 を考えたのも彼である。その他に数論 や幾何学 に関する業績がある。
病理学者 のオスカル・ミンコフスキー は兄。
生涯
ロシアのアレクソタス(現リトアニア 領カウナス 近郊)に出生。両親はドイツ系で、8歳の1872年に家族で当時ドイツ領だったケーニヒスベルク (現ロシア領カリーニングラード )へ移住した。ケーニヒスベルク大学 に進み、ダフィット・ヒルベルト とともにアドルフ・フルヴィッツ の下で学び、この二人とは終生の友人となった。
若い頃から数学的才能を示し、18歳の1883年、整数を5個の平方数 に分解する研究「自然数を5つの平方数の和として表す問題」で、ヘンリー・ジョン・スミス とともにフランス科学アカデミー から数学大賞を受けた。彼はその後も二次形式の研究を続け、1896年には幾何学的な考察から数論の定理を示す方法(彼はそれを「数の幾何学」と呼んだ)を編み出した。
1885年にケーニヒスベルク大学から学位を得、卒業後すぐにボン大学 客員教授に、次いで1894年にヒルベルトの後を受けてケーニヒスベルク大学助教授に就任。1896年、チューリッヒ のスイス連邦工科大学 準教授に就任。ここでの教え子に、若き日のアインシュタインがいた。『数の幾何学』を発表。
1902年、ヒルベルトの努力でゲッティンゲン大学 にミンコフスキーのために数学の講座が作られ、その教授に就任し、死去するまでこれを務めた。1907年までに、時間と空間を統一的に扱うミンコフスキー時空 の概念を作った。
1907年『ディオファントス近似論』、翌1908年『運動する物体の電磁過程論の基礎』と題する論文を発表。1909年に虫垂炎 によってゲッティンゲン で急死。同年『空間と時間』を発表。
業績
ミンコフスキーの主な業績は、幾何学、整数論 そして数理物理学 に関するものである。
二次形式論
ミンコフスキーが学界に認められるきっかけとなった研究は、自然数を5個の平方数の和として表すことに関係したパリ科学アカデミー の懸賞問題であった。二次形式 論はカール・フリードリヒ・ガウス が2,3変数の二次形式の理論を大きく発展させて以来、多くの数学者が研究していた。ミンコフスキーはn 変数の二次形式について、自身がディオファントス近似(ディオファントス方程式 にちなむ)と名づけた不等式 を用い、格子 と凸体 という幾何学的概念を導入して研究した。そしていくつもの数論の定理を幾何学的に証明したり、新しい定理を得た。その後この方法は、数の幾何学 (英語版 ) として独立した大きな分野を形作ることとなった。これらの研究は、後に関数解析 の理論や線形位相空間 論に応用されることになる。彼の導入した「格子」は結晶学 や金属学 などで応用されている。
ミンコフスキー空間
1907年ごろにミンコフスキーは、(アインシュタインの)特殊相対性理論 における「時空」が、時間の一つの次元と空間の三つの次元を、あるやりかたで組み合わせた四次元の空間としてエレガントに記述されることを見いだした(なお、通常の三次元に同じようにもう1軸を加えただけの「四次元ユークリッド空間」とは全く異なる)。この四次元の時空はミンコフスキー空間またはミンコフスキー時空と呼ばれている。
「空間と時間に関し私がここで展開したいと思っている視点は、
実験物理学 の土壌から芽生えたものであり、その力強さを内に持っている。この視点は革新的なものであり、これからは空間それ自身であるとか時間それ自身であるとかいったような概念は陰にすぎないところへと消え去っていくことになる。そしてこの両者を合わせたもののみが独立した実在としてあり続けることになる」
— ヘルマン・ミンコフスキー、Assembly of German Natural Scientists and Physicians , 1908年 9月21日
脚注
参考書籍
関連項目
外部リンク
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
ドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。