座標: 北緯4度45分13秒 西経2度04分01秒 / 北緯4.75361度 西経2.06694度 / 4.75361; -2.06694
- ブランデンブルク領黄金海岸
- Groß Friedrichsburg (ドイツ語)
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(国旗)
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現在のガーナ、当時の黄金海岸でのグロス・フリードリヒスブルクの所在。左下の黒点と旗。-
ブランデンブルク領黄金海岸(ブランデンブルクりょうおうごんかいがん)、のちプロイセン領黄金海岸(プロイセンりょうおうごんかいがん)は、黄金海岸の一部に存在した植民地である。ブランデンブルクによって設立され、1682年から1720年にかけて存在したが最後はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が7200ダカットでオランダに売却した[1]。
ブランデンブルク領
ブランデンブルク(のちのプロイセンの中核)選帝侯のフリードリヒ・ヴィルヘルムの出した勅許によって1682年3月17日に設立されたブランデンブルクアフリカ会社(独: Brandenburgisch-Afrikanische Compagnie (BAC))によって、西アフリカの黄金海岸、現在のガーナのスリーポインツ岬の周辺のギニア湾岸地域に、2つの小規模な植民地が設立された。
- グロス・フリードリヒスブルク(1683年-1717年):植民地の首府。ホーランディアとも呼ばれる[2]。現在のポケス(プリンス・タウン)。
- ドロテア砦(1684年-1687年4月、1698年-1711年、1712年-1717年4月):アッカダとも呼ばれる。現アクィーダ。1687年-1698年はオランダが占領していた[3]。
総督
- 1682年-1683年5月:Philipp Pietersen Blonck
- 1683年-1684年:Nathaniel Dillinger
- 1684年-1686年:Karl Konstantin von Schnitter
- 1686年-1691年:Johann Niemann
- 1691年-1693年:Johann Tenhoof
- 1693年-1695年:Jakob Tenhoof
- 1695年-1697年:Gijsbrecht van Hoogveldt
- 1697年-1699年:Jan van Laar
- 1699年-1701年:Jan de Visser
プロイセン領
1701年にブランデンブルク選帝侯、フリードリヒ3世がプロイセンの王(フリードリヒ1世)として戴冠して、プロイセン王国が成立した。
しかし、植民地経営としては不振が続いた。1713年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は「兵隊王」と綽名されるほどの熱心に陸軍戦備に取り組み、アフリカの植民地への関心は低かった。
1711年から1712年4月まで、オランダは再びドロテア砦を占領した。 1717年に植民地はプロイセンによって物理的に放棄されたため、1717年から1724年まで現地人の有力者のヨハネス・コンラート(英語版)(オランダ語読みでヤン・コニー)は手勢[4]でもってグロス・フリードリヒスブルクの要塞を支配していた。
1721年、植民地への権利はオランダに売却され、オランダ領黄金海岸の一部としてグロス・フリードリヒスブルクはホーランディアと改名された。ヨハネス・コンラートはオランダに抵抗して要塞を保持し続けたが、1724年に撤収した。
総督
- 1701年-1704年:Adriaan Grobbe
- 1704年-1706年:Johann Münz
- 1706年-1709年:Heinrich Lamy
- 1709年-1710年:Frans de Lange
- 1710年-1716年:Nicholas Dubois
- 1716年-1717年:Anton Günther van der Menden
- 1717年-1724年:ヤン・コニー(ヨハネス・コンラート)
関連項目
脚注
参照
- World Statesmen.org: Ghana
- Accada and Hollandia: pg. 252. New Cambridge Modern History Atlas, H.C. Darby and Harold Fullard
外部リンク