1777年7月下旬に、ニュージャージー海岸のサンディフックから34日間もの悲惨な旅の後で、イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍麾下17,000名ほどの軍隊が260隻以上の艦隊でメリーランド州エルク川河口に上陸した。そこはチェサピーク湾の北の奥、現在のエルクトン近くであり、フィラデルフィアの約40マイルないし50マイル (60~80 km) 南西にあたる。細い河口が浅く泥が多かったために上陸は難渋を極めた。
ジョージ・ワシントン将軍は約20,600名の大陸軍をエルク川河口とフィラデルフィアの間に置いていた。大陸軍はイギリス軍の上陸を北東に約9マイル (14 km) ほど離れたアイアンヒルから偵察することができた。上陸に手間取ったハウ軍は通常のキャンプも張らずに進軍を始めた。その結果ワシントンは正確に敵の勢力を掴めなかった。
9月11日の朝は濃霧が発生し、大陸軍はイギリス軍の動きを正確に把握できなかった。ワシントンは、イギリス軍の動きについて事実と異なる報告を受けていたので、イギリス軍の主力がチャズフォードを攻めてくるものと信じていた。午後2時頃、イギリス軍が大陸軍の右翼に現れた。ヘイズンの旅団が側面を衝かれ、サリバン、スティーブン、およびスターリングの部隊が予期せぬイギリス軍に対抗するために部隊の配置を変えようとした。ハウは攻撃を急がなかったため、大陸軍はチャズフォードの北約1マイル (1.6 km) にあるバーミンガム集会所のある高台に部隊を配置できた。4時までにイギリス軍はスティーブンとスターリングの師団を攻撃し、これを破った。サリバンは集会所の丘近くでスターリング隊の側面を衝こうとしていたドイツ人傭兵部隊の一隊を攻撃し、スターリング隊が撤退できるように時間を稼いだ。しかし、サリバンの部隊はイギリス軍の反撃にあって撤退を余儀なくされた。
^ abcPhiladelphia 1777: Taking the Capital, Clement pg. 23
^ abcdeMcGuire, Thomas J.; The Philadelphia Campaign: Volume 1: Brandywine and the Fall of Philadelphia; Stackpole Books; Mechanicsburg, Pennsylvania; 2006; ISBN 978-0-8117-0178-5; ISBN 0-8117-0178-6, page 269
^Boatner, Mark Mayo, Cassell’s Biographical Dictionary of the American War of Independence 1763?1783, Cassell, London, 1966, ISBN 0 304 29296 6, page 109
John Hannafin (11 September 2007). Battle of the Brandywine, Pennsylvania (Google video). Chadds Ford, PA: www.johnhannafin.com. (230th anniversary re-enactment)