この項目では、アメリカ・ベルモントパーク競馬場の2歳戦について説明しています。それ以外のフューチュリティステークスについては「フューチュリティステークス 」をご覧ください。
フューチュリティステークス (Futurity Stakes )は、アメリカ合衆国 ニューヨーク州 のベルモントパーク競馬場 で開催されている重賞 である[ 2] 。
1888年の創設以来長い間アメリカを代表する2歳戦だったが、近年はその価値を他に譲った。
各地に「フューチュリティ」とつく後発競走があることから、これらと区別してベルモントフューチュリティ (The Belmont Futurity )と通称されている[ 3] 。
概要
一般に、競走名に「フューチュリティ」とつく競走は2歳馬限定戦である。本競走はそのルーツとなった存在で、100年以上の歴史を持っている。本競走は、1888年にアメリカ史上最高賞金の競走「フューチュリティ (Futurity )」として創設され、長い間アメリカ国内で最も賞金の多い競走の一つだった。秋のニューヨークで開催され、野球のワールドシリーズ などと並んでスポーツのビッグイベントとして認知されてきた[ 3] 。少なくとも19世紀から20世紀前半までは、全米の競馬関係者の目標の競走の一つだった[ 4] 。
エイブラム・S・ヒューイットは著書「名馬の生産」の前書きにて、長距離が重視されていたアメリカ競馬をフューチュリティステークスがスピードと早熟性が重視されるようにしたということを指摘している。[ 5]
歴代の勝馬には、ドミノ 、コリン 、スウィープ 、マンノウォー 、トップフライト 、メノウ 、トムフール 、ネイティヴダンサー 、ナシュア 、ボールドルーラー 、ネヴァーベンド 、ボールドラッド(USA) 、セクレタリアト 、アファームド 、ホーリーブル 、マライアズモン 、などのアメリカの歴史的名馬が名を連ねている。
ヨーロッパや日本とは違い、アメリカでは2歳戦の価値が高く、特に生産者による注目度が高い[ 6] が、そうした風土を決定づけたのがこのフューチュリティステークスの創設だとの指摘もある[ 7] 。
本競走は2歳戦のシーズン後半に行われる高額賞金競走で、10月のシャンペンステークス と並んで、東海岸の2歳馬の目標となる競走と位置づけられており、1973年 にグレード制 が導入されたときには最高格のG1に認定された。1984年に、より高額で全米の2歳馬の目標となるべく創設されたブリーダーズカップ・ジュヴェナイル が11月に登場すると、その重要なステップレースと位置づけられるようになった。2004年にG2に降格したものの、引き続き、アメリカ東海岸地区の2歳有力馬は、9月の本競走、10月のシャンペンステークス をステップにブリーダーズカップ・ジュヴェナイル やロスアラミトスフューチュリティ(2013年まではハリウッドフューチュリティ) を目指すのが常道とされる[ 6] [ 8] 。
2018年より芝6ハロンの競走に変更されるとともに、この年から新設されるブリーダーズカップ・ジュヴェナイルターフスプリント のステップレースに位置付けされる。
しばしば単に「フューチュリティ(Futurity)」と表記される[ 9] 。
歴史
ニューヨークシティの競馬場
南北戦争が終わり、アメリカ東海岸が競馬の中心地であった時代に設立された。設立当時のアメリカの主流に反して、2歳の若馬による短距離線だったが、アメリカ史上最高の賞金を出すことでアメリカ競馬を代表する競走になった。この競走の成功によって、アメリカ競馬が2歳戦に傾倒する流れを生み出した。
競馬禁止法時代に低迷したが、解禁後は復活し、第二次世界大戦前後には絶頂期を迎えた。この競走に勝つことはその年の2歳チャンピオンになるのに等しかった。
1970年代から80年代の競馬ブームの中で後発の2歳戦にその座を奪われ、徐々にチャンピオン決定戦の地位を失っていったが、ブリーダーズカップ創設によってそれが決定的になった。2004年にはG2に転落した。
創設
19世紀終わり頃のシープスヘッドベイ競馬場
南北戦争 が起きる前のアメリカでは、古馬(4歳以上の馬)による長距離戦 が盛んだった。イギリスでは50年か100年前に廃れたような、4マイル(約6.4キロメートル)の競走やヒート戦 によって、強い負荷のもとでスタミナを発揮することがよしとされてきた。イギリスでは2歳や3歳馬による、1マイル(約1609メートル)や1マイル半(約2414メートル)の短い距離の競走が主流になっていったが、アメリカ人はこうした傾向を侮蔑していた[ 10] 。
1861年に始まった南北戦争によって、盛んに競馬を行っていたアメリカ南部は荒廃して競馬どころではなくなった。その結果、人、馬、カネといった競馬の資源が北部に集中するようになった。まだ戦争中の1863年頃からはニューヨーク近郊で次々と新しい競馬場が興されていった。これらが人気になるにつれ、より便利で、より新しい競馬場が作られるようになった。ニューヨーク界隈では事業家たちが競馬場を立ち上げ、目玉競走を創設して客の奪い合いをしていた[ 11] 。
1880年に、ニューヨークのビジネスマンたちによって、ブルックリン の南岸のシープスヘッドベイ にシープスヘッドベイ競馬場 が建設された。彼らは1884年にこの競馬場での最初の大きな重賞としてサバーバンハンデキャップ を創設した。続いて計画された大競走が、フューチュリティ (Futurity )(フューチュリティステークス Futurity Stakes)である[ 11] 。
事業家中心となっていたアメリカ競馬では実利を優先していたこともあり、早期に資金を回収できるレースの需要が高かった。[ 5] しかし、イギリスでは2歳馬による競馬は1780年代から本格的に行われるようになっていた[ 12] 一方で、古馬による長距離競走に傾倒していたアメリカ競馬にとって、2歳馬による競馬はかなり遅れていた[ 11] 。
空前の高額賞金の“フューチュリティ”
この新競走を考案したのがシープスヘッドベイ競馬場の経営者、ジェームズ・G・K・ローレンスだった[ 注釈 1] 。この競走に出走を希望するものは、予め仔馬が誕生するよりも前に、登録料を支払ってこの競走に予備登録を行う。1歳の夏に2度めの予備登録があり、競走の直前に最終の登録を行う。登録の度に登録料を支払う。第1回の場合、仔馬が誕生する前の1865年にまず25ドルを支払って登録をする。この時は752頭の登録があった。1866年に生まれた仔馬が1歳になった1867年の7月15日までに2度めの登録を行い50ドルを支払う。出走前の最終登録では250ドルを支払う。こうして集められた資金が史上空前の賞金の大半を賄うことになる。このほかにコニーアイランド競馬会が1万ドルを拠出し、賞金の総額はざっと5万ドルに達した。優勝馬に与えられる賞金だけでも4万ドル以上になった[ 注釈 2] [ 14] [ 15] 。
この額は、アメリカ競馬史上最高賞金額となった。たとえばこの頃始まっていたベルモントステークス の賞金は1着1万ドルほどだったし[ 16] 、たいていのステークス競走の1着賞金は数百ドルから1000ドル程度だった[ 17] 。これらに比べると、フューチュリティの賞金は“天文学的な”高額だった[ 18] 。
このように、“将来(フューチュリティ)”生まれてくる仔馬のために投資をすることから、この大競走は「フューチュリティ」と命名された[ 19] 。
第1回フューチュリティ
第1回フューチュリティの開催は、1888年のレイバー・デイ (9月の第一月曜日)である9月3日に行われた。競馬場があるコニーアイランド には全米から未曾有の4万5000人の大観衆が押し寄せ、ブックメーカー たちの売上は100万[ 17] から150万ドル[ 14] に達した。当時のニューヨーク・タイムズは、サンドイッチが18000食売れたとか、クラムチャウダーが500ガロン売れたとか、ソーダが600箱も売れた等と伝えている[ 14] 。競走は4分の3マイル(約1200メートル)で行われ、最終登録に残った19頭[ 20] のうち14頭が出走した[ 14] 。
全米から集まった2歳馬のなかで、単勝1番人気となったのがケンタッキーから来たスプリンターのプロクターノット(Proctor Knott )で、1.2倍の大本命となった。プロクターノットは8月11日にモンマス競馬場 で行われたジュニアチャンピオンステークスに勝ち、2歳馬の頂点に立っていた[ 21] 。
フューチュリティ競走の前、馬主のもとへ、プロクターノットを3万ドルで購入したいという申し出があった。ゴールドラッシュ で財を成したEJ“ラッキー”ボールドウィン (サンタアニタ競馬場 の創設者)によるこの申し出は丁重に断られた。真偽は定かではないが[ 注釈 3] 、ベルモントステークスの生みの親であり競馬会の重鎮だったオーガスト・ベルモント は4万ドルを提示したが、馬主はこれも断った[ 14] 。
対抗馬は単勝5倍のオーリコーマ(Auricoma)だったが、複勝ではオーリコーマが1.2倍で一番売れていた。(プロクターノットは1.4倍。)3番人気がジュニアチャンピオン3着のサルヴェイター(Salvator)で単勝7倍だった。オーガスト・ベルモントもフォレストキング(Forest King)を出したが、単勝41倍と低評価だった[ 14] [ 22] 。
2度のフライングがあって、3回めのやり直しで競走が始まった。スタートで先頭に立ったのはオーガスト・ベルモントのフォレストキングだった。2番手にガーレン(Galen)、その後ろにオーリコーマ、プロクターノット、サルヴェイターが続き、あとは一団だった。しかし、最初の1ハロンでフォレストキングに代わってガーレンが先頭に出た。オーリコーマはいつの間にか脱落していった。しかしこれらの様子は、最後の直線前で待ち構えている大観衆には見えなかった[ 14] 。
大観衆に最初に見えたのは、コーナーを単騎先頭で曲がってくる、紫地に白袖の勝負服のガーレンの姿だった。ガーレンは大きく後続を離しているように見えた。しかし実際にはガーレンは大外を回ってきただけで、内ラチぴったりを回ってきたプロクターノットとサルヴェイターに対して半馬身しかリードがなかった。人気のオーリコーマの姿がなく、オーリコーマに賭けていた観衆からは悲鳴が上がった[ 14] 。
直線を向いて、大外のガーレンと内のプロクターノット、サルヴェイターは半馬身からクビの差で激しく争った。並んで叩き合いになったプロクターノットとサルヴェイターは2度3度と体をぶつけあった。最後に半馬身ほどプロクターノットが前に出て、うまくサルヴェイターの針路を遮った。1位プロクターノット、半馬身差の2位にサルヴェイター、1馬身遅れた3位にガーランが入線した。サルヴェイターのハミルトン騎手はプロクターノットによる進路妨害を申し立てたが却下された。この結果、プロクターノットのフューチュリティ優勝が決まり、この世代の2歳チャンピオン となった[ 14] [ 23] [ 24] [ 22] 。
こうして第1回フューチュリティは大盛況で終わったが、競走の結果そのものは、関係者を落胆させた。というのも、優勝馬のプロクターノットは騸馬(去勢馬)だったので、未来(フューチュリティ)の優秀な種牡馬や繁殖牝馬を見出すという企てが失敗したからである[ 14] 。
その後、3歳になってプロクターノットはケンタッキーダービー でハナ差の2着に敗れた。サルヴェイターは3歳時に8戦して7勝した。破った馬の中にはベルモントステークス優勝馬のエリック(Eric)もいて、サルヴェイターは1889年の年度代表馬 に選出された。ただし、この年ただ1度の敗戦ではプロクターノットに先着を許している。サルヴェイターは1890年にも年度代表馬に選ばれ、種牡馬になると、フューチュリティステークス優勝のサヴェーブル(Savable)などを出した。サルヴェイターは後に競馬の殿堂入り を果たした。一方のプロクターノットは1891年に病死した[ 25] [ 22] [ 23] [ 26] 。
初期の開催
記念すべき第1回フューチュリティの開催よりも1年半前に遡る1887年3月には既に、1889年に予定されている第2回フューチュリティの詳細が発表されていた。815頭の登録があり、オーガスト・ベルモントは一人で28頭もエントリーしていたが、40頭や50頭を登録している馬主はザラにいて、たいていの生産者が半ダースから15頭ほどを登録していた。賞金の総額は75000ドルに達すると見積もられていた[ 27] 。
それから2年後の1889年9月4日のレイバーデイのシープスタッドベイ競馬場には23頭の若馬が集った。馬券が一番売れていたのはオーガスト・ベルモントのセイントカルロ(St.Carlo)で、西海岸のカリフォルニアからはキングトーマス(King Thomas)もやってきた。この年のゴール前は大混戦になって、勝ったのがどの馬か観客には全くわからなかったが、決勝審判はケイオス(Chaos)1着、セイントカルロ2着と判定した。進路妨害沙汰のあった前年のゴールが後味の悪いものだったのに対し、この年は1、2着の馬主はすんなりと結果を受け入れた。一説では、セイントカルロの騎手がブックメイカーと八百長を仕組み、ゴール寸前でわざと手綱を抑えたという[ 19] 。優勝賞金は6万3000ドルと言われている[ 28] [ 29] 。
3回めのフューチュリティステークスは、オーガスト・ベルモントのポトマック(Potomac)が優勝して7万ドルの賞金を手にした。2着も同厩のマッシャー(Masher)で、3着にはジュニアチャンピオンステークス勝馬のストレイスミース(Strathmeath)が入った[ 30] 。
2歳の年度代表馬の誕生
6回目の開催、1893年のフューチュリティステークスは、この競走が全米を代表する競走であることを決定的にした。この年はフューチュリティステークスの開催日にあたる8月29日に暴風雨 が上陸して大変な天候になった。悪天候で外出を断念した人が多かったので、来場した観衆は8000人から多くても15000人と見積もられている[ 注釈 4] 。この日、単勝1.4倍の本命になったのが、シカゴでハイドパークステークスを圧勝してきた6戦無敗のドミノ である[ 32] [ 19] [ 33] 。
きれいなスタートと共にタラール騎手 はドミノを先頭に立たせたが、これをギャリリー(Galilee)が激しく突っつく展開になった。最初のコーナーを曲がると、ギャリリーがドミノを追い越して先頭に立ち、横からはドービンス(Dobbins)がドミノに被せてきて大本命馬を包囲した。有利な位置取りを求めて騎手たちの怒号が飛び交った。道中、ドミノの僚馬ハイデラバード(Hyder Abad)が落馬してドミノはこれを避けるために不利があった。直線を向くと、ドミノは外からギャリリーに並びかけようとするが、ドービンスが反対側から迫ってドミノをはさみこんだ。そのまま3頭が鼻面を合わせての激しい叩き合いになった。大観衆からはたいへんな叫び声が飛んだ。ドミノの馬主のジェームズRキーンだけは声も出せず、株の大暴落を見つめるウォール街の住人のように真っ青な顔をしていた、と当時のニューヨークタイムズは伝えている。最終的には、タラール騎手の素晴らしい騎乗によって、ドミノはハナ差で勝利をおさめた。悪天候にもかかわらず、走破タイムの1分12秒4/5は3/4マイルの新記録となった。2着にギャリリーが入ったが、ギャリリーの負担重量はドミノよりも15ポンド(約6.8キロ)少なかった[ 19] [ 33] [ 34] [ 35] 。
総賞金の65000ドルあまりのうち、優勝したドミノの馬主には49715ドル、生産者のディキシアナ牧場 には4000ドルが支払われた。2着馬には馬主に約5200ドル、生産者に2500ドル、3着馬は馬主に2666ドル、生産者に1000ドルがそれぞれ与えられた。ドミノの獲得賞金は14万ドルを越えた。ドミノには「アメリカでかつて生産された中で最も偉大な馬」という評価が与えられた[ 19] 驚いたことに、ドミノの馬主はこの勝利でも飽き足らず、フューチュリティのわずか2日後にドービンスに10000ドルを賭けてマッチレースを申し込んだ。ドミノは連戦で疲弊していつもの調子がなく、ドービンスを振りきれずに同着になった。ドミノはこの年、さらにメイトロンステークス に出たが、ここには強い相手がなく楽勝した。この年、ドミノが稼いだ賞金は17万ドルほどになって、2歳馬の獲得賞金記録となった。この記録は38年間破られなかった。ドミノはこの年のアメリカ年度代表馬に選出されたが、2歳馬が年度代表馬になるのは史上初だった。ドミノはわずか19頭の産駒を残して夭逝したが、その中からコマンドー が再び2歳で年度代表馬になり、その子コリン はフューチュリティステークスに勝って2歳で年度代表馬になった。[ 35] [ 36] 。
競馬禁止法と開催地の変更
19世紀の終わり頃から、競馬に対する世間の風当たりは強まっていた。1908年にニューヨークのキリスト教保守層によって賭博を規制する法律(ハート・アグニュー法 )が可決された。馬券の発売が大きく制限され、ニューヨーク州では1911年以降、すべての競馬場が閉鎖されることに決まった[ 注釈 5] 。シープスヘッドベイ競馬場は閉鎖されて売却されることになった。1910年のフューチュリティステークスは、サラトガ競馬場 に場所を移してなんとか開催されたが、それ以降は開催されなかった。
1913年に規制が解除されることが決まり、フューチュリティステークスも再開されることになった。1913年と1914年はサラトガ競馬場で開催されたが、賞金は15000ドルほどまで下がっていた。1915年からはベルモントパーク競馬場 に移転した。1960年代にはベルモント競馬場の建替えのため、しばしばアケダクト競馬場 で行われた。賞金は10年かかって元の水準まで戻り、その後高騰して1929年には10万ドルを突破した[ 37] 。
アメリカを代表する2歳戦として
賞金面では創設時より、2歳戦どころか「アメリカの代表的な競走」の一つだった。
2歳戦としては、創設の1888年から1899年までのあいだの12頭の優勝馬のうち8頭がその年のアメリカ2歳チャンピオンに選出されている。20世紀初頭はニューヨークでの競馬禁止、それに伴う賞金の低下によって価値を下げ、1901年から1920年までの20年間の勝馬からは5頭しか2歳チャンピオンに選ばれなかった。ただし、その中にはコリン 、マンノウォー といったアメリカの歴史的名馬が含まれている[ 38] 。
その後、1920年代から1950年代半ばまでは、本競走の優勝馬がことごとく2歳チャンピオンに選出された。1923年のセントジェイムズ(St.James)から1954年のナシュア (Nashua)まで、32年間で21頭の優勝馬が2歳チャンピオンとなっている[ 38] 。この時代はアメリカの競馬の復興期で、2歳馬の価格もどんどん値上りした。第2次世界大戦でヨーロッパ競馬が荒廃したため、アメリカ競馬は一人勝ちの状態になり、戦後も10年間、名馬が次々と登場した[ 39] 。この時期の優勝馬には、三冠馬 サイテーション 、ブルーピーター(Blue Peter [ 注釈 6] )、トムフール (Tom Fool)、ネイティヴダンサー (Native Dancer)などがいる。
1957年からは出生前の登録を出走要件としなくなったが、この頃からフューチュリティステークスよりも遅く行われるシャンペンステークス のほうが2歳チャンピオン選出に大きな役割を果たすようになった。1955年以降、ブリーダーズカップジュヴェナイル創設前年の1983年までの間で、フューチュリティステークスの優勝馬が2歳チャンピオンになったのは6頭しかいないが、1ヶ月後に同じ舞台で行われるシャンペンステークスからは16頭のチャンピオンが出ている。(このうちネヴァーベンド (Never Bend)、ボールドラッドUSA(Bold Lad )、トップナイト(Top Knight)の3頭は両競走を勝っている。[ 38] )
とはいえ、アメリカの2歳戦としては最も重要な競走として認知されており[ 40] 、アメリカでグレード制 が始まった1973年から最高格のG1に格付けされてきた。
新興勢力の登場とG2陥落
ハリウッドからの挑戦
2歳チャンピオン選出への影響力という意味では1980年代に創設された超高額賞金競走の影響が大きかった。アメリカの2歳戦は、春夏シーズンを中部や西部で行い、秋にベルモントパーク競馬場を中心としたニューヨーク地区へ戻ってきてその年のチャンピオンを決める、という流れだったのだが、資金の潤沢なハリウッドパーク競馬場は12月に新たな2歳戦としてハリウッドフューチュリティを創設した。一流の2歳馬を全米から集めるためにハリウッドパーク競馬場が用意した賞金は50万ドルで、これまで高額賞金で鳴らしてきたフューチュリティステークスの賞金が10万ドルだったので、フューチュリティステークスはすっかり霞んでしまった[ 注釈 7] 。
1982年の2歳戦は、東海岸で1頭の名馬が出現した。コウプラン(Copelan)はホープフルステークス、フューチュリティステークス、シャンペンステークスと、ニューヨーク地区の主要2歳G1を3連勝した。かつてセクレタリアートやアファームドですら成し遂げられなかった偉業で、シアトルスルー以来の無敗の2歳チャンピオンの誕生のはずだった。2歳チャンピオンどころか、年度代表馬の声もあがっていた。しかしコウプランは高額賞金を目指して12月のハリウッドフューチュリティに遠征し、5着に敗れてしまった。フリーハンデでは同じ126ポンドの評価だったが、この年の2歳チャンピオンはハリウッドフューチュリティを勝ったラヴィングボーイ(Roving Boy)になってしまった。[ 43] [ 44] [ 45] [ 46]
翌年にはハリウッドフューチュリティはG1格に認定され、賞金100万ドルになり、アメリカで最も賞金の高い競走となった。もちろん2歳戦として賞金が100万ドルとなる競走も史上初である。一方、フューチュリティステークスは賞金10万ドルのままだった[ 47] 。
ブリーダーズカップの登場
さらに次の1984年には、ブリーダーズカップ (以下「BC」)が創設された。このイベントは、フューチュリティステークスが創設時に行ったのと似たような方法で、たいへんな高額賞金を実現した新しいタイプの競走だった。フューチュリティステークスが「妊娠中の牝馬」の所有者から登録料を集めたのに対し、BCは種馬の所有者から登録料を集めることを思いついたのだった。全米の種牡馬の種付け料1回分を集めた結果、イベントの賞金総額は1300万ドルにも膨れ上がった。7つの大レースからなるこのイベントは西海岸のハリウッドパーク競馬場 で行われ、2歳チャンピオン決定戦のBCジュヴェナイル は賞金100万ドルで行われた。この年、フューチュリティステークスではスペクタキュラーラヴ(Spectaculer Love)がチーフズクラウン (Chief's Crown)を1馬身差で下して優勝したが、BCジュヴェナイルではチーフズクラウンが1番人気で勝ち、2番人気のスペクタキュラーラヴは8着に沈んだ。2歳チャンピオンにはチーフズクラウンが選ばれた[ 48] 。
BC創設の影響は明白で、あちこちで従来の主要競走の価値の低下が見られた。主要な競走の中にも、これまでの開催スケジュールを改め、BCに合わせた日程に変更する競走が出たが、結果として同じ日に同じような条件の一流競走が重複することになり、出走馬が分散してレベルの低下が見られるようになった。シャンペンステークスのように、影響があまりにも顕著だったため、たった1年で慌てて条件を元に戻した例もあった[ 48] 。
1984年以降、2013年までの30年間で、フューチュリティステークスの優勝馬が2歳チャンピオンになったのは、2頭しかいない。この2頭は1987年のフォーティナイナー (Forty Niner)と1995年のマリアズモン (Maria's Mon)で、両馬ともフューチュリティステークスとシャンペンステークスを勝った馬である。一方、この30年間で、BCジュヴェナイルの優勝馬が2歳チャンピオンになったのは22回である。
フューチュリティとブリーダーズカップ
フューチュリティステークス優勝馬の、その年のBCジュヴェナイルでの着順は次のようになる(創設以来20年間)[ 49] 。
年次
フューチュリティS優勝馬
ブリーダーズカップでの成績
備考
1984
Spectacular Love
2番人気で8着。
1985
Ogygian
不出走
1986
Gulch
2番人気で5着。
1987
Forty Niner
不出走
シャンペンSに勝ち、2歳チャンピオン選出
1988
Trapp Mountain
不出走
1989
Senor Pete
不出走
1990
Eastern Echo
不出走
1991
Agincourt
13番人気で5着。
1992
Strolling Along
5番人気で8着。
1993
Holy Bull
不出走
1994
Montreal Red
不出走
1995
Maria's Mon
不出走
シャンペンSに勝ち、2歳チャンピオン選出
1996
Traitor
不出走
1997
Grand Slam
2番人気で競走中止。
1998
Lemon Drop Kid
4番人気で5着。
1999
Bevo
不出走
2000
Burning Roma
11番人気で4着。
2001
中止
2002
Whywhywhy
1番人気で10着(最下位)
2003
Cuvee
1番人気で12着(最下位)
G2降格
BC創設初年度にスペクタキュラーラヴがBCジュヴェナイルで大敗した後も、フューチュリティステークス優勝馬がBCジュヴェナイルで好走した例はない。フューチュリティステークスを開催するニューヨークからみて地元開催である年度でも、フューチュリティステークスの優勝馬がBCジュヴェナイルに出走しないケースが多かった。特に2002年、2003年は2年連続でフューチュリティステークス優勝馬がBCジュヴェナイルで本命視されながら最下位に終わるという有様で、翌年にはとうとうフューチュリティステークスはG2に格下げされてしまった。一般には「BCジュヴェナイルの重要な前哨戦[ 8] 」とされながらも、創設以来2013年まで、フューチュリティステークス勝馬からBCはジュヴェナイル優勝馬は出ていない。2013年までのBCはジュヴェナイル優勝馬のなかで、フューチュリティSに出走したことがあるものは前述のチーフズクラウン(フューチュリティS2着)ただ1頭だけである[ 50] 。
各回の結果
馬名に*を付したものは日本輸入馬。
年
開催地
距離
メートル換算
格付
勝馬
備考
1888
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Proctor Knott
2歳チャンピオン選出
1889
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Chaos
1890
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Potomac
2歳チャンピオン選出
1891
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
His Highness
2歳チャンピオン選出
1892
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Morello
2歳チャンピオン選出
1893
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
ドミノ
2歳チャンピオン選出
1894
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
The Butterflies
1895
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Requital
2歳チャンピオン選出
1896
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Ogden
2歳チャンピオン選出
1897
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
L'Alouette
1898
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Martimas
1899
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Chacornac
2歳チャンピオン選出
1900
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Ballyhoo Bey
1901
シープスヘッドベイ
1263ヤード1フィート
約1155
Yankee
1902
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Savable
1903
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Hamburg Belle
1904
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
アートフル
1905
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Ormondale
1906
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Electioneer
1907
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
コリン
2歳チャンピオン選出
1908
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
Maskette
1909
シープスヘッドベイ
3/4マイル
約1207
スウィープ
2歳チャンピオン選出
1910
サラトガ
3/4マイル
約1207
Novelty
2歳チャンピオン選出
1911
-
-
開催なし
1912
-
-
開催なし
1913
サラトガ
3/4マイル
約1207
Pennant
1914
サラトガ
3/4マイル
約1207
Trojan
1915
ベルモント
3/4マイル
約1207
Thunderer
1916
ベルモント
3/4マイル
約1207
Campfire
2歳チャンピオン選出
1917
ベルモント
3/4マイル
約1207
Papp
1918
ベルモント
3/4マイル
約1207
Dunboyne
1919
ベルモント
3/4マイル
約1207
マンノウォー
2歳チャンピオン選出
1920
ベルモント
3/4マイル
約1207
Step Lightly
1921
ベルモント
3/4マイル
約1207
Bunting
1922
ベルモント
3/4マイル
約1207
Sally's Alley
1923
ベルモント
3/4マイル
約1207
St. James
2歳チャンピオン選出
1924
ベルモント
3/4マイル
約1207
Mother Goose
1925
ベルモント
7/8マイル
約1408
Pompey
2歳チャンピオン選出
1926
ベルモント
7/8マイル
約1408
Scapa Flow
2歳チャンピオン選出
1927
ベルモント
7/8マイル
約1408
Anita Peabody
1928
ベルモント
7/8マイル
約1408
High Strung
2歳チャンピオン選出
1929
ベルモント
7/8マイル
約1408
Whichone
2歳チャンピオン選出
1930
ベルモント
7/8マイル
約1408
Jamestown
2歳チャンピオン選出
1931
ベルモント
7/8マイル
約1408
トップフライト
1932
ベルモント
7/8マイル
約1408
Kerry Patch
1933
ベルモント
7/8マイル
約1408
Singing Wood
1934
ベルモント
13/16マイル
約1308
Chance Sun
1935
ベルモント
13/16マイル
約1308
Tintagel
2歳チャンピオン選出
1936
ベルモント
13/16マイル
約1308
Pompoon
2歳チャンピオン選出
1937
ベルモント
13/16マイル
約1308
メノウ
2歳チャンピオン選出
1938
ベルモント
13/16マイル
約1308
Porter's Mite
1939
ベルモント
13/16マイル
約1308
バイムレック
2歳チャンピオン選出
1940
ベルモント
13/16マイル
約1308
Our Boots
2歳チャンピオン選出
1941
ベルモント
13/16マイル
約1308
Some Chance
1942
ベルモント
13/16マイル
約1308
Occupation
1943
ベルモント
13/16マイル
約1308
Occupy
2歳チャンピオン選出
1944
ベルモント
13/16マイル
約1308
Pavot
2歳チャンピオン選出
1945
ベルモント
13/16マイル
約1308
Star Pilot
2歳チャンピオン選出
1946
ベルモント
13/16マイル
約1308
First Flight
1947
ベルモント
13/16マイル
約1308
サイテーション
2歳チャンピオン選出
1948
ベルモント
13/16マイル
約1308
Blue Peter
2歳チャンピオン選出
1949
ベルモント
13/16マイル
約1308
Guillotine
1950
ベルモント
13/16マイル
約1308
Battlefield
2歳チャンピオン選出
1951
ベルモント
13/16マイル
約1308
トムフール
2歳チャンピオン選出
1952
ベルモント
13/16マイル
約1308
ネイティヴダンサー
2歳チャンピオン選出
1953
ベルモント
13/16マイル
約1308
Porterhouse
2歳チャンピオン選出
1954
ベルモント
13/16マイル
約1308
ナシュア
2歳チャンピオン選出
1955
ベルモント
13/16マイル
約1308
Nail
1956
ベルモント
13/16マイル
約1308
ボールドルーラー
1957
ベルモント
13/16マイル
約1308
Jester
1958
ベルモント
13/16マイル
約1308
インテンショナリー
1959
アケダクト
13/16マイル
約1308
Weatherwise
1960
アケダクト
13/16マイル
約1308
Little Tumbler
1961
ベルモント
13/16マイル
約1308
Cyane
1962
アケダクト
13/16マイル
約1308
ネヴァーベンド
2歳チャンピオン選出
1963
アケダクト
13/16マイル
約1308
Bupers
1964
アケダクト
13/16マイル
約1308
* ボールドラッド
2歳チャンピオン選出
1965
アケダクト
13/16マイル
約1308
Priceless Gem
1966
アケダクト
13/16マイル
約1308
Bold Hour
1967
アケダクト
13/16マイル
約1308
Captain's Gig
1968
ベルモント
13/16マイル
約1308
Top Knight
2歳チャンピオン選出
1969
ベルモント
13/16マイル
約1308
High Echelon
1970
ベルモント
13/16マイル
約1308
Salem
1971
ベルモント
13/16マイル
約1308
リヴァリッジ
1972
ベルモント
13/16マイル
約1308
セクレタリアト
2歳チャンピオン選出
1973
ベルモント
13/16マイル
約1308
G1
Wedge Shot
1974
ベルモント
13/16マイル
約1308
G1
Just The Time
1975
ベルモント
13/16マイル
約1308
G1
Soy Numero Uno
1976
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
For The Moment
1977
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
アファームド
2歳チャンピオン選出
1978
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Crest Of The Wave
1979
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Rockhill Native
2歳チャンピオン選出
1980
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Tap Shoes
1981
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Irish Martini
1982
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Copelan
1983
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Swale (horse)
1984
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Spectacular Love
1985
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
*オジジアン
1986
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
ガルチ
1987
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
*フォーティナイナー
2歳チャンピオン選出
1988
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Trapp Mountain
1989
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Senor Pete
1990
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Eastern Echo
1991
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Agincourt
1992
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
Strolling Along
1993
ベルモント
7/8マイル
約1408
G1
ホーリーブル
1994
ベルモント
1マイル
約1609
G1
Montreal Red
1995
ベルモント
1マイル
約1609
G1
マライアズモン
2歳チャンピオン選出
1996
ベルモント
1マイル
約1609
G1
Traitor
1997
ベルモント
1マイル
約1609
G1
グランドスラム
1998
ベルモント
1マイル
約1609
G1
レモンドロップキッド
1999
ベルモント
1マイル
約1609
G1
Bevo
2000
ベルモント
1マイル
約1609
G1
Burning Roma
2001
-
-
-
-
開催中止
2002
ベルモント
1マイル
約1609
G1
Whywhywhy
2003
ベルモント
1マイル
約1609
G1
Cuvee
2004
ベルモント
1マイル
約1609
G2
Park Avenue Ball
2005
ベルモント
1マイル
約1609
G2
Private Vow
2006
ベルモント
1マイル
約1609
G2
King of the Roxy
2007
ベルモント
1マイル
約1609
G2
Tale of Ekati
2008
ベルモント
7/8マイル
約1408
G2
Charitable Man
2009
ベルモント
3/4マイル
約1207
G2
D' Funnybone
2010
-
-
-
-
開催中止
2011
ベルモント
3/4マイル
約1207
G2
Jack's in the Deck
2012
ベルモント
3/4マイル
約1207
G2
Overanalyze
2013
ベルモント
3/4マイル
約1207
G2
In Trouble
2014
ベルモント
3/4マイル
約1207
G2
Blofeld
2015
ベルモント
3/4マイル
約1207
G2
Annual Report
2016
ベルモント
3/4マイル
約1207
G3
Theory
2017
ベルモント
3/4マイル
約1207
G3
Engage
2018
ベルモント
3/4マイル
約1207
LR
Uncle Benny
2019
ベルモント
3/4マイル
約1207
G3
Four Wheel Drive
2020
ベルモント
3/4マイル
約1207
G3
Second of July
2021
ベルモント
3/4マイル
約1207
G3
Slipstream
2022
アケダクト
3/4マイル
約1207
G3
Nagirroc
2023
アケダクト
3/4マイル
約1207
G3
Book'em Danno
2024
アケダクト
3/4マイル
約1207
G3
Mentee
脚注
注釈
^ しかし彼は、記念すべき1回めの開催には出席しなかった。開催の前に2人の子を亡くし、妻も重病を患っていたためである[ 13] 。
^ 最終的な賞金の正確な値は資料によって異なっている。レース翌日のニューヨークタイムズ[1] によれば41,675ドル、別の資料[2] によれば40,625ドルである。
^ ニューヨークタイムズ紙 1888年8月22日付 “Some Turf Notes” によれば、オーガスト・ベルモントが「4万ドルを提示したという噂」を否定しているが、レース後の9月4日付のニューヨークタイムズはこのオファーについて報じている。
^ このほか、観客が競馬場に行くのをためらわせた理由として次のような原因が指摘されている。賭博・競馬界への風当たりが厳しくなってきたこと。近年、モンマスパーク競馬場が経営が立ち行かなくなって閉鎖されたこと。2ヶ月前のサバーバンハンデ当日のシープスヘッドベイ競馬場から帰る満員電車が、パークヴィルトンネル直前で脱線事故を起こしてトンネル内の側壁に激突し、多数の乗客が投げ出されたり車両の下敷きになる大事故を起こしたこと。死者9名、負傷者は100名以上にのぼった。死者の中には「今日は6000ドルも勝った」と言い残して死んだものもいた。事故の原因はポイントを切り替える係員の居眠り[ 31] 。
^ 正確には、禁止されるのは賭博すなわち馬券の販売であり、競馬そのものは禁止されたわけではないが、馬券の売上で経営を行う競馬場にとっては実質的に競馬の禁止に等しい。この結果、多くの競馬場が閉鎖された。
^ ブルーピーター とは同名異馬。アメリカのブルーピーターは2歳時に重賞5勝を含む10戦8勝で2歳チャンピオンになったが、その後出走せず病死した。死後、競馬の名誉の殿堂入りをした。
^ この頃、それまで競馬を開催していなかった時期にも競馬を行うため、鎮痛剤などをはじめとして、競走馬に対する薬物投与の規制が多くの競馬開催州で緩められた。ニューヨークの競馬界はこれに反対したことで地位を落としたという指摘もある[ 41] [ 42] 。
出典
^ TOBA Announces U.S. Graded and Listed Stakes bloodhorse.com、2016年3月13日閲覧
^ ICSC 2013アメリカ認定レース一覧 2014年4月12日閲覧。
^ a b “The Belmont Futurity”Reading Eagle紙 1951年10月2日付
^ ニューヨークタイムズ紙 1893年8月30日付 「フューチュリティステークスは全米の競馬関係者全てが勝ちたいと熱望する競走で、その年の最良の馬を決める競走である。」“The stake,as has been said,is the one which every owner,breeder,and trainer,desires to see a horse of his win.It is a test of the very best horses of the year”
^ a b 『新版 競馬の血統学』NHK出版、2012年4月10日、99頁。
^ a b 『海外競馬完全読本』海外競馬編集部・編、東邦出版・刊、2006、p60-63
^ 吉沢譲治 (2007年7月26日). “ブラッド・ストーリー 2歳時の活躍は「才能の前兆」第3話 ”. JRA. 2007年11月21日時点のオリジナル よりアーカイブ。2013年9月29日 閲覧。
^ a b About.com 2011年7月3日付 2011年フューチュリティステークス 2014年4月8日閲覧。“The $150,000 Futurity Stakes (G2) at Belmont Park is an early prep for the Breeders' Cup Juvenile”
^ HRNA 2009 Futurity 2014年4月13日閲覧。
^ 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976,p216
^ a b c 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976,p222-234
^ 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976、p85-86
^ ニューヨークタイムズ紙 1888年9月4日号“Proctor Knott's Futurity” 2014年4月8日閲覧
^ a b c d e f g h i j ニューヨークタイムズ紙 1888年9月4日号“Proctor Knott's Futurity” 2014年4月8日閲覧。
^ About.com Horseracing Salvator 2014年4月10日閲覧。
^ ニューヨークタイムズ 1888年6月9日付 “Race at Jerome To-day” 2014年4月9日閲覧。
^ a b “The Futurity Stakes”Daily Alta California, Volume 42, Number 14244, 4 September 1888 2014年4月8日閲覧。
^ サラブレッドヘリテイジ ドミノ 2014年4月12日閲覧。“the rich Futurity Stakes, with a purse of over $45,000. Because of the purse, astronomical for those days”
^ a b c d e ロサンゼルスヘラルド紙 1893年8月30日付 “Domino Captured It Through Skillful Handling” 2014年4月11日閲覧。“It takes its name from the fact that the produce of the mares therein engaged are nominated in the September after they are bred to the horse”
^ ニューヨークタイムズ紙 1888年9月2日号“フューチュリティステークス出走予定馬一覧” 2014年4月8日閲覧。
^ ニューヨークタイムズ紙 1888年8月22日付 “Some Turf Notes” 2014年4月10日閲覧。
^ a b c About.com Horse Racing Salvator(1886-1909) 2014年4月10日閲覧。
^ a b Bloodhorse誌公式HP 歴代チャンピオン 2014年4月11日閲覧。
^ サラブレッドヘリテイジ アメリカ歴代2歳牡馬チャンピオン一覧 2014年4月11日閲覧。
^ ニューヨークタイムズ紙 1889年8月14日付 “Longstreet's Fine Run” 2014年4月11日閲覧。
^ ロサンゼルス・ヘラルド紙 1902年8月31日付 “Savable wins the Futurity” 2014年4月11日付
^ ニューヨークタイムズ紙 1887年3月18日付 “The Greatest Stakses of 1889” 2014年4月11日閲覧、。
^ サクラメント・デイリーユニオン紙 1889年9月5日付 “Chaos captured the Great Futurity Stakes in fine style”
^ The Country Transformed: タイムズ誌 1891年9月27日号より 2014年4月11日閲覧。“Chaos, the winner of the Futurity stakes in 1889, worth $63,000”
^ カリフォルニアデイリーアルタ紙 1890年8月31日付 “The Futurity Stakes:Belmont's colt Potomac wins the great Event” 2014年4月11日閲覧。
^ オアマルメイル紙 1893年8月18日号 “Terrible Railway Accident”
^ ニューヨークタイムズ紙 1893年7月14日付 “Domino won the Hyde Park Stake” 2014年4月11日閲覧。
^ a b ニューヨークタイムズ紙 1893年8月30日付 “Domino won the Futurity”
^ ニューヨークタイムズ紙 1893年8月29日付 “The Rich Futurity”
^ a b サラブレッドヘリテイジ ドミノ 2014年4月12日閲覧。本サイトによると、1,2着の着差はアタマ差。
^ サラブレッドヘリテイジ アメリカ年度代表馬一覧 2014年4月12日閲覧。
^ ニューヨーク競馬協会 ベルモントフューチュリティ勝馬一覧 2014年4月12日閲覧。
^ a b c サラブレッドヘリテイジ アメリカ2歳チャンピオン一覧 2014年4月12日閲覧。
^ 『競馬の世界史』p281-306
^ サラブレッドヘリテイジ フューチュリティステークス 2014年4月12日閲覧。“the most important juvenile event until the introduction of the Breeders' Cup series.”
^ 『ホース・トレーダーズ』p338
^ イブニングニュース 1990年6月11日付
^ ニューヨークタイムズ紙 1982年8月29日付 “Copelan is easy winner in Hopeful” 2014年4月13日閲覧。
^ ニューヨークタイムズ紙 1982年8月29日付 “Unbeaten Copelan is winner in Belmont Futurity” 2014年4月13日閲覧。“If Copelan wins the Champagne, he would be in a position to be the first undefeated champion 2-yearold since Seattle Slew in 1977.”
^ ニューヨークタイムズ紙 1982年10月18日付 “Race still on for horse of year” 2014年4月13日閲覧。
^ 『Legacies of the Turf: A Century of Great Thoroughbred Breeders』第2巻, Edward L. Bowen著[3]
^ EQUIBASE ハリウッドフューチュリティ 2014年4月13日閲覧。
^ a b 『ホース・トレーダーズ』p340-362
^ EQUIBASE フューチュリティS などをもとに作成
^ BLOODHORSE 2003年11月25日付“List of Graded Stakes for 2004 Released; Total Drops By Seven” 2014年4月13日閲覧。
外部リンク