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ヒッチコック・マガジン

ヒッチコック・マガジン
Alfred Hitchcock's Mystery Magazine
1959年8月号(創刊号)
ジャンル ミステリ小説誌、娯楽雑誌、コラム雑誌
刊行頻度 月刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
定価 100円(創刊号)
出版社 宝石社
編集長 中原弓彦(創刊号 - 1963年3月号)
萩原津年武(1963年4月号 - 7月号)
刊行期間 1959年8月号 - 1963年7月号
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ヒッチコック・マガジン[注 1]は、日本の月刊ミステリ小説誌、娯楽雑誌。1959年6月22日に創刊号(8月号)が発売された[5]。発行は宝石社。アメリカ合衆国のH.S.D.パプリケーションズ発行の『Alfred Hitchcock's Mystery Magazine』と版権契約を結んでおり、同誌の日本版という位置づけだった[6]小林信彦が「中原弓彦」の筆名で編集長を務めた雑誌として知られ、映画やジャズの批評、コラム、ショートショート、座談会、イラストなどが充実していたことから、『平凡パンチ』(1964年創刊)や『話の特集』(1965年創刊)などに大きな影響を与えた[7][8]。1963年7月号をもって廃刊。

概要・沿革

1958年晩秋、江戸川乱歩は失業中の小林信彦を池袋の自宅に招いた。話をする中で、推理小説誌『宝石』で翻訳ミステリの書評をすること、毎月1万円の謝礼で1959年1月から宝石社の編集コンサルタントをすることなどが決まった[9]

その頃『宝石』は、アメリカ合衆国のH.S.D.パプリケーションズ発行の『Alfred Hitchcock's Mystery Magazine』と契約して、毎月3、4編の小説を「ヒッチコックの頁」として掲載していた。作品の選定は田中潤司が行っていた。これに目を付けたのが朝日新聞社だった。『週刊朝日』の別冊として『Alfred Hitchcock's Mystery Magazine』とまるごと契約したいと版権事務所のタトル商会に申し出た。宝石社は好評だった「ヒッチコックの頁」を他社に譲るか、新たに版権契約を結び、日本版として独立させるかの岐路に立たされた。出版好きの乱歩は東京創元社厚木淳田中潤司に新雑誌の編集をやらないかと打診するが、いずれも断られた。1月末、乱歩は小林に編集長を命じた[9]。同年2月5日、タトル商会で翻訳権の話し合いが行われ、月額10万円の予定が6万3千円で交渉が成立した[10]

小林は弟の小林泰彦に挿絵を依頼。泰彦は依頼を引き受け、この頃一般的でなかった「イラストレーション」という用語を使うことを提案した。レイアウトは祖慶良順の「ジュン・デザイン工房」が担当した。小林は「中原弓彦」という筆名をこのときから使った[1]

同年6月22日、創刊号(8月号)が発売[注 2]。定価は100円だった。

同年半ば、新外映で買い付けを担当していた秦早穂子がフランスから帰国[12]。9月号から小林と秦とゲストの3人による座談会の連載が始まった。主要作品が日本で一般公開されていなかった時期[注 3]に秦はいち早くヌーヴェルヴァーグを紹介。8月22日発売の10月号でこの新しい潮流を次のように解説した[15]

ヌーヴェルヴァーグがなぜできたかというのはいろいろあるけれども、やっぱり若い人が自分で勝手なことをして自分でいいものをつくりたい。自分の意図を映画によって表現したい、というのが本質的な問題ね。
もう一つ、そうでない外部的理由っていうのもあるわけよ、必ず。というのは古い監督とか巨匠というのはお金がかかる。ギャラばかりとられて映画は当たらないということになると、安くて勝手にこき使える人たちというのをプロデューサーなんか要求していたわけよ。ちょうどフランスは政治的にも経済的にもだめになって[注 4]、それが勿論、映画界に影響して来た。そういうときからヌーヴェルヴァーグという兆しはあったわけよ。だからわりあいに、金持ちの子が多いですよ。ルイ・マルだってシャブロールだって。じゃなきゃどっかから金主を探してくるのね。オッセンなんか、金主を探してくる才能がある。 — 『ヒッチコック・マガジン』1959年10月号、宝石社、70頁。

11月号の座談会では、イタリアでちょうど撮影中だったルネ・クレマン監督の新作が「パトリシア・ハイスミスの『太陽のただ中』」という言葉で語られ[17]、12月号で秦、荻昌弘、小林の3人は、日本で一般公開されたばかりの『いとこ同志』を激賞した[18]。こうした先端的な記事が毎号載っていたにもかかわらず、雑誌はなかなか売れなかった。大手紙からも酷評された[19]

一方で熱烈に支持する10代、20代の読者がいた[4]。ファンクラブが結成されると、ひとまず銀座で「アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリ・マガジン」日本支部としての第1回の会合が行われ、淀川長治が支部長に就いた。創刊から1年も経たないあいだに兵庫県や山口県はじめ、地方でファンクラブが生まれた。東京近郊の読者は毎月、西銀座のシュガー・ボールに集まり、都筑道夫星新一大藪春彦永六輔前田武彦などをゲストに招いた。永と前田がパーソナリティを務めるラジオ番組『昨日のつづき』の友の会とも交流があり、相模湖で合同ハイキングを開いたり、1960年12月18日には合同クリスマス・パーティーを開いたりした[20][21][22][23]

1960年8月号が完売[4]。そして拳銃特集を組んだ同年9月号が大きく当たり、以後、拳銃の特集または記事が続く。表紙も銃器の写真がメインになった。1961年には「GUNのすべて」と題した5月増刊号が通常号とは別に発売された[24][25]

小林が力を入れたものの一つにショートショートがあった。1960年1月号に「新作ショート・ショート三人集」と題する巻頭特集が組まれ、江戸川乱歩の「指」、城昌幸の「エクトプラズム」、星新一の「年賀の客」が掲載された。星は同年8月号~11月号に「雨」「その子を殺すな!」「信用ある製品」「食事前の授業」を寄稿。この4編と『宝石』9月号、11月号に掲載された「弱点」「生活維持省」の計6編の作品で、第44回直木賞(1960年下半期)の候補となった[26]。星のほかには、結城昌治山川方夫都筑道夫樹下太郎河野典生谷川俊太郎やなせたかし眉村卓らがショートショートを執筆した[24][25]

1963年1月31日、小林は宝石社を退社[27][28]。3月号をもって編集長を下りた。4月号から萩原津年武が編集を担当。7月号で廃刊となった。

小林は晶文社から1974年6月に『東京のロビンソン・クルーソー』を、1976年10月に『東京のドン・キホーテ』を刊行。当雑誌に小林が書いた文章や座談会などが多数転載された。前者には、安保闘争のルポルタージュ「黒いデモ隊」、新婚旅行で訪れた瀬戸内海の生口島の旅行記「珍日本三景/その3 潮声山耕三寺」、パロディ「古典の現代語訳―『シャーロック・ホームズ』を現代語に訳したら」などが掲載され、後者には小林が関わった全編集後記やアルフレッド・ヒッチコック夫妻を囲む座談会などが掲載された。

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ 表紙のタイトルの表記は中黒のない「ヒッチコックマガジン」である。創刊号の奥付ならびに「死体置場の片隅から」と題された編集後記には「ヒッチコック・マガジン」と記されている[1]国立国会図書館の所蔵目録の表記も「ヒッチコック・マガジン」である[2]。編集長を務めた小林信彦も自著で「ヒッチコック・マガジン」と書いている[3][4]
  2. ^ 21日に発売する予定だったが、日曜日に重なったため22日になった[5]。しばらく22日発売が続き、1960年1月号から21日発売になった[11]
  3. ^ 1959年6月8日から13日にかけて東京の読売ホールで第2回「フランス映画祭」が開催された。この催しでクロード・シャブロルの『いとこ同志』のほか『レ・ミゼラブル』『自殺への契約書』『燃える大地』『二十四時間の情事』『アルピニスト 岩壁に登る』など6本の新作映画と短編映画『セーヌの詩』が特別上映された[13][14]
  4. ^ 1954年7月、フランスは8年にわたるインドシナ戦争を終結させるが、植民地であったフランス領インドシナを失った[16]。そして同年11月に勃発したアルジェリア戦争は泥沼の様相を呈していた。

出典

  1. ^ a b 『ヒッチコック・マガジン』1959年8月号、宝石社、134頁。
  2. ^ ヒッチコック・マガジン | 書誌詳細”. 国立国会図書館. 2023年7月12日閲覧。
  3. ^ 小林信彦『東京のロビンソン・クルーソー』晶文社、1974年6月30日、144-147頁。 
  4. ^ a b c 道化師のためのレッスン 1984, pp. 24–27.
  5. ^ a b 小林信彦60年代日記 1985, pp. 16–17.
  6. ^ 『ヒッチコック・マガジン』1959年8月号、宝石社、4頁。
  7. ^ 亀和田武「作家の<秘密の日記>」 『小林信彦の仕事』弓立社、1988年7月15日、284頁。
  8. ^ 道化師のためのレッスン 1984, pp. 162–163.
  9. ^ a b 回想の江戸川乱歩 1994, pp. 8–12, 68–70.
  10. ^ 小林信彦60年代日記 1985, pp. 11–13.
  11. ^ 『ヒッチコック・マガジン』1959年12月号、宝石社、132頁(新年特大号予告)。
  12. ^ 秦早穂子、森田和雄、中原弓彦「第一回 パリへの道(上)」 『ヒッチコック・マガジン』1959年9月号、宝石社、70頁。
  13. ^ キネマ旬報』1959年7月夏の特別号。
  14. ^ 映画評論』1959年7月号。
  15. ^ 秦早穂子、森田和雄、中原弓彦「第二回 パリへの道(下)」 『ヒッチコック・マガジン』1959年10月号、宝石社、70頁。
  16. ^ Logevall, Fredrik (2012). Embers of War: The Fall of an Empire and the Making of America's Vietnam. random House. ISBN 978-0-679-64519-1 
  17. ^ 秦早穂子、双葉十三郎、中原弓彦「ヒッチコックの新作『北北西に進路を取れ』をめぐって」 『ヒッチコック・マガジン』1959年11月号、宝石社、71頁。
  18. ^ 秦早穂子、荻昌弘、中原弓彦「秋の話題作をめぐって」 『ヒッチコック・マガジン』1959年12月号、宝石社、68-76頁。
  19. ^ 道化師のためのレッスン 1984, p. 37.
  20. ^ 『ヒッチコック・マガジン』1960年5月号、宝石社、165-166頁。
  21. ^ 『ヒッチコック・マガジン』1960年11月号、宝石社、166頁。
  22. ^ 『ヒッチコック・マガジン』1960年12月号、宝石社、165-166頁。
  23. ^ 『ヒッチコック・マガジン』1961年2月号、宝石社、165頁。
  24. ^ a b ヒッチコックマガジン目次細目 第2巻(1960年)”. MISDAS. 2023年7月12日閲覧。
  25. ^ a b ヒッチコックマガジン目次細目 第3巻(1961年)”. MISDAS. 2023年7月12日閲覧。
  26. ^ 「直木賞のすべて」受賞作・候補作一覧(非公式サイト) - ウェイバックマシン(2023年3月26日アーカイブ分)
  27. ^ 「小林信彦自筆年譜」 『小林信彦の仕事』弓立社、1988年7月15日、307-308頁。
  28. ^ 小林信彦60年代日記 1985, p. 93.

関連項目

参考文献

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