病院医療への従事を経て、1842年にホジキンは聖トーマス病院(英語版)で教鞭を執ることを依頼された。1825年に聖トーマス病院・ガイ病院医学学校 (St. Thomas's and Guy's Medical School) の運営を停止した後、聖トーマス病院は、以前の職員と新しい医学学校を設立していた。ホジキンは依頼を受け入れ、更にマーシャル・ホール(英語版)やジョージ・グレゴリー(英語版)を新しい講師として迎え入れている。彼は自分自身でも講義を行い、チャールズ・バーカーとのシリーズ講義も行っている。また、付属博物館の発展と、事例報告を行う医療学会(英: a Clinical Society)を始めるため、ガイ病院(英語版)での経験を自ら記録している。しかし結果は彼にとって不満足なものだった。ホールは講師としてホジキン以上の人気を博したほか、皮膚病 (en) について講義したグレゴリーは、明晰さで評判となり教科書を書くまでに至った。一方ホジキンが翌年の講義継続を依頼されることはなく、契約はそのまま途切れてしまった[21][22]。
ホジキンは学問分野として確立される前から、自然人類学や現在民族学と呼ばれる文化学に興味を抱いていた。ガイ病院(英語版)付属博物館の学芸員として、世界中の民族から標本を集めている[25]。1827年には、西アフリカ言語の研究を行っていた宣教師ハナ・キラム(英語版)を後援する手紙の中で、彼がかねてから温めてきた「文明」論を初めて発表している[26]。ホジキン家はロンドンの文明協会(英: a Civilization Society)で、初期の数年間主導的役割を担っていた[27]。先住民保護協会(英語版)の設立支援に際して、彼は個別言語こそが人類の起源を知る言語学上の証拠になるのだから、絶滅の危機に瀕している場所では保護されるべきだとの言説を発表した[28]。1835年には、言語学協会にこの話題に関する論文を寄稿し、アンケート調査実施を提案している[29]。
ホジキンにとって、言語とは人種の特色であった[30]。1838年暮れ、彼はパリで W・F・エドワーズと会い、フランスでも先住民保護協会と同様の組織を設立するよう説得した。翌1839年には、エドワーズ自身の考えに従って、パリ民族学協会(英語版)(仏: Société Ethnologique de Paris)が設立されている[31]。この進展は、1843年にロンドン民族学協会(英語版)設立に反映されている[32]。この協会は、先住民保護協会から科学的・言語学的関心を理由に分岐し、宣教師活動との関係を断ち切ったものだった。
アフリカの植民地化
ホジキンはリベリアの独立当初その支援者であり、シエラレオネと比較して好意的に評価していた[33]。エリオット・クレソン(英語版)やアメリカ植民地協会を支援して、彼はクエーカーや奴隷廃止論者として主流の考えから距離を置いた。1833年に、アメリカの奴隷廃止論者 (en) 、ウィリアム・ロイド・ガリソンがイングランドを訪れた際には、ホジキンはガリソンとクレソンを引き合わせようとしている。ホジキンはクレソンの英国アフリカ植民地協会(英: British African Colonization Society)設立を支援したが、自分自身がクエーカーや内科医としての本来の考えから離れてしまっていることに気付いた。またガリソンやその同士からは、ホジキンに対する個人的非難が寄せられている[34]。
ホジキンは、アクロマート型顕微鏡について1830年に著名な設計案を発表したジョセフ・ジャクソン・リスターと共同研究を行っている[40]。ホジキンとリスターは、リスターの発展させた顕微鏡を使って組織標本に関する研究を発表し、アンリ・ミルヌ=エドワールなどの唱えた「小球体仮説」(英: the "globule hypothesis")の立証に挑んだ[41]。彼らは組織内に小球が存在しないと発表したが、エルンスト・ヴェーバーは1830年にこの説を否定し、10年にわたる論争となった[42]。暫くの間顕微鏡術はその評判に悩まされたが、1840年までには組織学が一学問分野として認められるようになり、ホジキンとリヒターの「『小球体』は視覚による人工産物だ」との視点は受け入れられた[43]。1827年に2人が発表した論文は、「近代組織学の興り」と呼ばれている[44]。
1832年にホジキンは、"On Some Morbid Appearances of the Absorbent Glands and Spleen"(訳:吸収性リンパ腺と脾臓の病態所見について)と題した論文で、後に彼の名前が冠された病気・ホジキンリンパ腫を報告している[45]。33年経ってから、この病気を再発見した英国の内科医・サミュエル・ウィルクス(英語版)によって、彼にこの病気のエポニムが与えられている[注 5]。この病気は、他の組織に浸潤し、リンパ系や脾臓、肝臓の肥大を起こす悪性腫瘍の一種である。より初期の段階では「ホジキン側肉芽腫」(英: Hodgkin's paragranuloma)[46]、逆により進行した場合には「ホジキン肉腫」(英: Hodgkin's sarcoma)と呼ばれる。
ホジキンは1836年と1840年に、"Lectures on Morbid Anatomy"(訳:病態解剖に関する講義)と称した本を発行している。一方で、彼の病理学教育に対する最大の貢献は、1829年に発行された2巻物の"The Morbid Anatomy of Serous and Mucous Membranes"(訳:漿液性・粘液性膜組織の病態解剖)との本で、近代病理学の古典となっている。
ホジキンは最初期の予防医学(英語版)擁護者の1人であり、1841年には "On the Means of Promoting and Preserving Health"(訳:健康増進と維持の意義について)との言説を本の形で出版している。初期の観察の中には、急性虫垂炎や、赤血球の両凹性形状、また筋繊維の縞状帯に関する初めての記述が含まれている。
彼は更に、トーマス・フィッシャーと、フランスのウィリアム・フレデリック・エドワーズ(英語版)が書いた文章を翻訳し、"On the Influence of Physical Agents on Life"(訳:物理的因子が生物に与える影響について)を発表している(ロンドン・1832年、フィラデルフィア・1838年)[47][48] 。エドワーズは生理学の中でも生気論を唱える人物であり、生命体の中で物理力が与える影響を段階を追って研究していた[49]。英語版の文章は翻訳の域を超えるもので、2ダースもの論文をまとめた200ページ以上の補遺を含んだものだった。また、エドワーズの本題からは脱線するものの、彼の一般的なアプローチ方法に関連する、医学や科学の要約が成されたパートが付け加えられていた。この本には、ある種の電気学や気象学に加えて、ホジキンの初期の研究や、リスターとの共同研究が収められていた[50]。更に、1840年にはロンドンで先述の "The Means of Promoting and Preserving Health"(訳:On the Means of Promoting and Preserving Health)を発行し(第2版が翌1841年に発行された)、1847年には"Address on Medical Reform"(訳:医学改善への意見書)を発表している[2]。
Kass, Amalie M. and Kass, Edward H. (1988) Perfecting the World: The life and times of Dr. Thomas Hodgkin, 1798–1866, Boston, Harcourt Brace Jovanovic. ISBN 9780151717002