ウィリアム・ホーア による肖像画、1762年。
第2代エグレモント伯爵 チャールズ・ウィンダム (英語 : Charles Wyndham, 2nd Earl of Egremont PC 、1710年 8月19日 – 1763年 8月21日 )は、グレートブリテン王国 の貴族、政治家。
生涯
生い立ち
第3代準男爵サー・ウィリアム・ウィンダム とキャサリン・シーモア(Catherine Seymour 、第6代サマセット公爵 チャールズ・シーモア の娘)の息子として、1710年8月19日に生まれ[ 1] 、30日にセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ で洗礼を受けた[ 2] 。1719年よりウェストミンスター・スクール で教育を受け[ 3] 、1725年5月4日にオックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学した[ 4] 。その後、1728年から1730年までジョージ・リトルトン (後の初代リトルトン男爵)とヘンリー・バサースト (後の第2代バサースト伯爵)とともにグランドツアー に出て、ドイツ、フランス、イタリアを旅した[ 3] 。
父がトーリー党の重鎮で、1715年ジャコバイト蜂起 ではジェームズ老僭王 を支持したとしてロンドン塔 に投獄された経緯があり、ウィンダムも父の存命中はトーリー党の一員として行動したが、1740年に父が死去するとトーリー党から離脱してホイッグ党に接近するようになった[ 2] 。
庶民院議員
トーリー党 に属し、1734年イギリス総選挙 でローンストン選挙区 (英語版 ) から出馬して落選したが[ 5] 、翌年4月にブリッジウォーター選挙区 (英語版 ) の補欠選挙で当選した[ 6] 。議会では野党の一員として投票したが、1741年イギリス総選挙 でジョージ・バブ・ドディントン の裏切りに遭って敗北した[ 3] 。この選挙ではウィンダム、ドディントン、ヴィアー・ポーレット閣下 の3人が出馬しており、うちポーレットが与党の候補でウィンダムとドディントンが野党の候補であり、定数は2人だった[ 6] 。首相ロバート・ウォルポール ははじめポーレットの当選とドディントンの落選に向けて活動したが、ドディントンはポーレットと手を結び、与党側からも票が流れてきたことでドディントンとポーレットが当選した[ 6] 。ただし、同じくトーリー党に属する初代ゴア伯爵 ジョン・ルーソン=ゴア が保険としてアップルビー選挙区 (英語版 ) でもドディントンを当選させていたため、議席に空きが生じ、ウィンダムは1742年1月に行われたアップルビー選挙区の補欠選挙で議員に返り咲いた[ 3] 。また、1740年6月17日に父が死去すると、準男爵 位を継承した[ 1] 。
1742年にウォルポール内閣 が倒れると、ウィンダムは与党に転じ、第2代カートレット男爵 ジョン・カートレット (後の第2代グランヴィル伯爵)を支持した[ 3] 。これによりトーリー党からの支持を受けられなくなったため、1747年イギリス総選挙 ではトーントン選挙区 (英語版 ) に転じて再選した[ 3] 。このとき、コッカーマス選挙区 (英語版 ) でも当選したが、トーントン選挙区の代表として議員を務めることを選択した[ 7] 。この頃よりグランヴィル派からニューカッスル公爵 派に転じている[ 7] 。
貴族院議員
1750年2月7日に母方の伯父にあたる第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモア が死去すると、エグレモント伯爵 位の特別残余権(special remainder )に基づき爵位を継承した[ 1] 。このとき、公爵が所有していたコッカーマス とペットワース (英語版 ) の領地も継承したものの[ 3] [ 8] 、イングランド北部での領地はほとんど顧みず、ペットワースに住んだという[ 7] 。
貴族院での弁論に関わることは少ないものの、1757年4月に第2代テンプル伯爵 リチャード・グレンヴィル=テンプル から「将来は2人目のピット になるに違いない」と評価され、同年夏に第2代ウォルドグレイヴ伯爵 ジェイムズ・ウォルドグレイヴ が組閣を試みたとき、ヘンリー・フォックス から国務大臣の就任を打診された[ 7] 。このときまでにフォックスに接近したエグレモントははじめ許諾したものの、後にそれを撤回した[ 7] 。
国務大臣就任と死去
1761年春にアウクスブルク で行われる予定だった七年戦争 の講和会議では大ピット とニューカッスル公爵の推薦を受けてイギリス代表の1人になった[ 7] 。この講和会議は最終的には開催されなかったが、エグレモントは同年7月8日に枢密顧問官 に任命され、同年10月に大ピットが南部担当国務大臣 から辞任すると、マンスフィールドの推薦を受けてその後任になった[ 7] [ 2] 。以降ビュート伯爵内閣 とグレンヴィル内閣 でも留任した[ 7] 。
就任してすぐフランス・スペイン間の第三次家族協約 への対応に追われ、スペインとの交渉にかかりきりだった[ 7] 。エグレモントはまず国王と議論して、首相の第3代ビュート伯爵 ジョン・ステュアート に知らせないまま在スペインイギリス大使 (英語版 ) の第2代ブリストル伯爵 ジョージ・ハーヴィー に交渉を命じ、イギリスがスペインへの敵意を有さないことを約束しつつ、家族協約にイギリスの利益を損害する内容が含まれない證明を引き出そうとした[ 7] 。しかし、エグレモントは対スペイン交渉において譲歩の意思を見せず、結局交渉は決裂、イギリスは1762年1月4日にスペインに宣戦布告した[ 7] (英西戦争 (1762年-1763年) (英語版 ) )。
直後の1762年3月に卒中を起こして危篤状態に陥ったと報じられるが、すぐに回復し、以降1762年中を通してフランスとの講和交渉にあたった[ 7] 。イギリスがスペイン領ハバナを占領 していたため、エグレモントはジョージ・グレンヴィル [ 注釈 1] や初代マンスフィールド男爵 ウィリアム・マレー (英語版 ) とともに、ビュート伯爵の講和政策(講和を何よりも優先させる政策)に反対したが、講和条約の交渉役である第4代ベッドフォード公爵 ジョン・ラッセル はエグレモントが在イギリスフランス大使ニヴェルネー公爵 との会談で譲歩したため、「フランスはパリで失ったものをロンドンで取り返した」と訴え、ビュート伯爵と国王ジョージ3世 もベッドフォード公爵を支持した[ 7] 。そのため、同年夏にエグレモントをアイルランド総督 に転出させ、閣内分裂を防ごうとする動きがあったが失敗に終わり、2人の関係は悪化した[ 7] 。やがてエグレモントはビュート伯爵やほかの閣僚を説得、11月2日の予備講和条約が締結されたときにはハバナをスペイン領フロリダ と交換させることに成功した[ 7] 。この一連の政争について、リチャード・リグビー (英語版 ) はエグレモントがベッドフォードを憎んだため攪乱に動いたと指摘、フォックスはエグレモントよりもグレンヴィルとマンスフィールドを責めるべきとの見解を表明した[ 7] 。
1763年4月にビュート伯爵が首相を辞任すると、グレンヴィルが後任になり、エグレモントと北部担当国務大臣 の第2代ハリファックス伯爵 ジョージ・モンタギュー=ダンク と三頭政治を組んで国王の意向を政策に反映しつつ、ビュート伯爵の「秘密の影響力」に対抗した[ 7] 。このことについて、エグレモントは同年5月にビュートになんらかの影響力が残っていることが発覚した場合、自身は即刻辞任すると表明するほどの強硬な態度を示した[ 7] 。
その後、ジョン・ウィルクス の誹謗文書事件への対応に追われる中[ 7] 、1763年8月21日にピカデリー のエグレモント・ハウス (英語版 ) で卒中を起こして死去、息子ジョージ・オブライエン (英語版 ) が爵位を継承した[ 1] 。
名誉職
人物
ホレス・ウォルポール によると、第2代エグレモント伯爵は「偉大なサー・ウィリアム・ウィンダム の息子、老サマセット公爵 の孫として生まれ、父の能力より公爵の並外れた高慢さのほうを遺伝してしまったが、ユーモアに溢れていた」という[ 1] 。ウォルポールはさらにエグレモント伯爵を「実業の知識も、議事の才華もない」(had neither knowledge of business, nor the smallest share of parliamentary abilities )と酷評したが、ブリタニカ百科事典第11版 はこれを過小評価だとしている[ 8] 。
19世紀の歴史家である第5代スタンホープ伯爵 フィリップ・スタンホープ (英語版 ) はエグレモントが高位の官職についた理由を父の第3代準男爵サー・ウィリアム・ウィンダム の名声に帰したが、英国人名事典 では(父がトーリー党に属したのに対し)エグレモントが政界において早い時期からホイッグ党の指導者と親しかったことを理由に、スタンホープの見解を「批判にほとんど耐えられない」(scarcely tenable )と評した[ 7] 。
家族
エグレモント伯爵夫人アリシア・マリア (英語版 ) 。ウィリアム・ホーア 画、1762年。
1751年3月12日、アリシア・マリア・カーペンター (英語版 ) (1794年6月1日没、第2代カーペンター男爵 ジョージ・カーペンター (英語版 ) の娘)と結婚[ 1] 、4男2女をもうけた[ 11] 。
注釈
出典
^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 36–37.
^ a b c Scott, H. M. (4 October 2008) [2004]. "Wyndham, Charles, second earl of Egremont". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/30139 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e f g Cruickshanks, Eveline (1970). "WYNDHAM, Charles (1710-63), of Orchard Wyndham, Som." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月29日閲覧 。
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1620.
^ Cruickshanks, Eveline (1970). "Launceston (Dunheved)" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月29日閲覧 。
^ a b c Matthews, Shirley (1970). "Bridgwater" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月29日閲覧 。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u Norgate, Gerlad le Grys (1900). "Wyndham, Charles" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 63. London: Smith, Elder & Co . pp. 240–243.
^ a b Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Egremont, Earls of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 9 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 20.
^ Sainty, John Christopher (November 2002). "Custodes Rotulorum 1660-1828" . Institute of Historical Research (英語). 2019年7月13日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年7月29日閲覧 。
^ "Vice Admirals of the Coasts from 1660" . Institute of Historical Research (英語). 2006年9月28日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年7月29日閲覧 。
^ "Egremont, Earl of (GB, 1749 - 1845)" . Cracroft's Peerage (英語). 26 November 2005. 2020年7月29日閲覧 。
^ Brooke, John (1964). "WYNDHAM, Hon. Percy Charles (1757-1833)." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月16日閲覧 。