「サリエリが最大の勝利を得たのはフランスで、『ダナオスの娘たち』によってグルックの後継者と目された。さらに、この後、圧倒的な成功を収めたのは『タラール』」なのである。これにはウィーンでの上演のためにロレンツォ・ダ・ポンテがイタリア語でリブレットを書いた改作版『オルムズの王アクスール(英語版)』(Axur, Re d'Ormus)があり、こちらの稿も評判が良かった[6]。
初演とその後
1787年6月8日にパリ・オペラ座で行われた初演は大成功を収め、その独創性から「『タラール』はドラマと歌の怪物であり、誰もこのようなものをかつて観たことがない」と評された[7]。なお、不測の事態を警戒した警察がオペラ座周辺に400人の要員を配していたのである。そして、王妃は列席せず、ボーマルシェも姿を消したままだった[8]。
フランス革命勃発後の1790年にはボーマルシェが最終幕に『タラールの戴冠』を加えたヴァージョンも作られ、1826年までに合計131回の上演がオペラ座で行われ、これは『ダナオスの娘たち』の127回を凌ぎ、パリにおけるサリエリの最大の成功作となった[7]。
イギリス初演は1825年8月15日にロンドンのライシアムで行われた[2]。
ウィーンに戻るとヨーゼフ2世が命じて『タラール』のイタリア語版を作らせたのが『オルムスの王アクスール Axur, re d’ Ormus』(1788年1月8日ブルク劇場初演)である。これは台本作家ダ・ポンテが危険思想を薄めて改作し、〈自然〉と〈火の神〉によるプロローグと最終場を除去し、サリエリも音楽をイタリア風のものに書き替えて別のオペラとなっている[9]。
リブレット
ボーマルシェがオペラの台本を書こうと思い立ったのは戯曲『セビリアの理髪師(フランス語版)』が初演された1775年にまで遡る。当時彼は作曲家にグルックを想定したが、『タラール』が具現化した1784年に彼の前に現れたのはサリエリだった。『ダナオスの娘たち』と戯曲『狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚(フランス語版)』の成功が両者を引き合わせたのである。最初に動いたのはボーマルシェだった。彼は当時既に完成していた本作の台本を貴族のサロンで朗読して好評を博すと、これをオペラ座の理事会に持ち込んだ。理事会は採用を決定し、サリエリへの作曲依頼を了承した[10]。
ボーマルシェは本作の物語のプロットをジェイムズ・リドリー(英語版)による『ジェニーの物語(英語版)』(1764年出版)の中の第二巻の第8話『サダックとカラスラーデ』(Sadak and Kalasrade)からとっているが、これは『千夜一夜物語』から着想を得ている[3]。
カルピージがイルザ(アナスタジー)のための祝宴の準備をしている。アタールの護衛のユルソンはアルタモールがタラールを戦場で殺害しようとして逆に殺されたと伝える。アタールは、祝宴の席上、人々の前でアスタジーを王妃に迎えようと決め、奴隷たちに歌と踊りを命じる。祝宴が始まり、バレエと合唱が続くが、余興のバレエ音楽の間に、女の羊飼いと農夫による劇中劇と舞踏が演じられる。客たちはヨーロッパで通用している一夫一妻制よりハーレムの楽しみの方が良いと言う。アナスタジーは王妃の冠を与えられる。歌を求められたカルピージは、イタリア風の明るく洒脱な〈アリア〉「私はフェッラーラで生まれた」(Je suis natif de Ferrare)バルカロールのリズムでカルピージが歌手となるべく去勢された自分が海賊に捕われ、奴隷として売られた経緯を歌うなか、命の恩人タラールの名を口にする。それを聞いて一同驚きの声をあげ、驚きのあまり失神したアスタジーが運び出され、客人たちは退散する。その間タラールは後宮の庭に忍び込み、カルピージの助けで口のきけない黒人に変装する。戻った皇帝は見知らぬ黒人に死刑を命じるが、すぐに気が変わり、アスタジーへの妃になるのを拒んだ罰としてこの黒人と結婚させることにする。