カルティエは1491年にブルターニュ公国の北西にある港町サン・マロで生まれた[注釈 1]。腕のいい航海者だったカルティエは1520年に、この地の指導層の一族であるMary Catherine des Granchesと結婚することで社会的地位を向上させた[3]。サン・マロでの彼の令名は、名親や証人として洗礼の記録の中に頻繁に登場することからもうかがい知ることができる[4]。カルティエは各地に航海を繰り返し、その中にはブラジルや、1497年にジョン・カボットによって発見されたのち世界有数の好漁場としてフランスの漁民が群がるようになったニューファンドランドも含まれていた。
3度の北米探検行
第一次航海(1534年)
1532年にブルターニュ公国がフランスとの連合を行ってから2年後の1534年、カルティエはサン・マロ司教にしてモン・サン・ミシェル修道院長であるJean Le Veneurによって、フランス国王フランソワ1世に紹介された。フランソワ1世は北アメリカ大陸の北側を抜けてアジアへと抜ける、いわゆる北西航路の探索に力を入れており、すでに1524年にはジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノを北アメリカ大陸に派遣し、現在のサウスカロライナ州からニューファンドランドまでの海岸を探索させていた。しかしこの探検においては目立った発見がなかったため、フランソワ1世はその北側の地域の探索をカルティエに命じた。
第二回の探検行は1535年5月13日、3隻の船と110人の乗組員で行われ、ドンナコナの2人の息子も同行した。今回の探検においては、前年探検し残したセントローレンス湾の西端部へ直行し、9月7日にはセントローレンス湾の最奥部にあるイロコイ族の村落スタダコナ(Stadacona、現在のケベック)に到達し、ドンナコナと会した。なお、カルティエはスタダコナとその周辺の土地や川を「カナダ」と呼んでいる。カルティエとイロコイ族の関係は良好であり、カルティエはドンナコナの家でタバコを振舞われた。また更に北にあるという黄金の地サグネ王国(Royaume du Saguenay)について知った。
スタダコナには大きな河川(セントローレンス川)が流れ込んでおり、カルティエはこの河川こそが北西航路であると信じて、さかのぼってさらに上流へと向かうことに決めた。セントローレンス川をさかのぼった一行はイロコイ族の要塞村落オシュラガ(Hochelaga、現在のモントリオール)へ到達、そこにある山をモン・ロワイヤル(le mont Royal、フランス語で「王の山」の意)と名付けた。現在のモントリオール(フランス語でモンレアル)は、この山の名前に由来する。しかしオシュラガの上流には急流があり、それ以上川をさかのぼるのは不可能であった。カルティエはこの急流を中国(フランス語では、la Chine、ラ・シーヌ)への道を阻むものだと考え、ここをラシーヌ瀬(ラピッド・ドゥ・ラシーヌ、Rapides de Lachine)と名付けた。10月11日にはスタダコナへと戻ったが、フランスに戻るにはすでに寒くなりすぎていたため、カルティエはスタダコナで越冬し、翌年5月まで過ごした。この越冬時には船団は氷に閉じ込められ、壊血病の流行で少なくない死者が出ている。
^Biggar, H.P. (1930) A Collection of Documents relating to Jacques Cartier and the Sieur de Roberval, Ottawa, Public Archives of Canada. Over 20 baptisms cited.