ジェラード・ストリートは、様々な行事の際に飾り立てられる。2004年の春節 の風景。
43番地
40番地にシティ・オブ・ウェストミンスター が設置したポール・ド・ラメリー の緑色のブルー・プラーク 。
37番地
ジェラード・ストリート (英語 : Gerrard Street 、中国語 : 爵祿街 、拼音 : Juélù Jiē )は、ロンドン のウエスト・エンド 、チャイナタウン (英語版 ) 地区にある街路 。
この街路は、1677年 から1685年 にかけて建設され、もともと一帯の土地を所有し、練兵場 として使っていた当時の軍事指導者、初代マクルズフィールド伯爵 チャールズ・ジェラード (英語版 ) にちなんでジェラード・ストリートと命名された。この街路を拓いたのは医師 で投資家、重商主義者としても知られたニコラス・バーボン であった。18世紀 半ばには、住宅地としてよりも、もっぱらコーヒー・ハウス や酒場の集まる場所として知られるようになっていた。
住民
詩人 ジョン・ドライデン (John Dryden、1631年 – 1700年)は、ジェラード・ストリート43番地に居住していた時期があり、ブルー・プラーク によって記念されている[2] 。
「18世紀のイングランドで最も偉大な銀細工職人 」と評されるポール・ド・ラメリー (Paul de Lamerie 、1688年 - 1751年)は、40番地に住居と仕事場を構えていた[3] 。
37番地にある、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ によるブルー・プラークは、政治思想家 エドマンド・バーク (Edmund Burke、1729年 - 1797年)を記念したものである[4] 。
フィクション では、チャールズ・ディケンズ が『大いなる遺産 』に登場する弁護士ジャガース (Mr Jaggers) の住まいをここに設定し、「通りの南側にある家。同じような家よりもかなり立派な家だが、悲しいほど塗装がされておらず、あるのは汚れた窓、... 石の広間、... 暗茶色の階段、... 暗茶色の部屋、... 羽目板の壁だ」と描写している[5] 。
1953年 、4番地の小さなスタジオには、劇場写真家ジョージ・ハリソン・マークス (英語版 ) とそのパートナーだったパメラ・グリーン (英語版 ) が住み、仕事場にもしていた。1950年代 後半、カメラ・パブリケーション社 (Kamera Publications Ltd) の成功を経て、彼らは隣の5番地の最上階に、ずっと大きなスタジオを構え直した。1960年代 はじめには、4番地の地上階(1階)は、ギャラリーに改装された。映画監督 マイケル・パウエル は、古典的作品とされる1960年の映画 『血を吸うカメラ (Peeping Tom )』のセットを、この場所を模して作った。この映画には、グリーンも出演した。
事業所
ザ・クラブ の創設を記念し、シティ・オブ・ウェストミンスター が設置した緑色のブルー・プラーク 。
9番地には、サミュエル・ジョンソン とジョシュア・レノルズ が会合を重ね、1764年 にこの場所にあったタークス・ヘッド・タヴァーン (Turk's Head Tavern) で、ダイニング・クラブ (英語版 ) としてザ・クラブ (英語版 ) を創設したことを記念するブルー・プラーク がある[6] 。
狂騒の20年代 には、43番地に43クラブ (英語版 ) が開業し、ジャズ・クラブ として派手なパーティーで知られるようになり、富や権力をもつ有力者たちがしばしば訪れるようになった[7] 。このクラブは、内務省 直々の命令によって閉鎖され、所有者であったケイト・メイリック (英語版 ) は投獄された。
1968年 8月、レッド・ツェッペリン は、ジェラード・ストリートのとある地下室で最初のリハーサルをおこない、「トレイン・ケプト・ア・ローリン (Train Kept A-Rollin' )」を演奏した[8] 。この地下室の正確な場所はわからなくなっているが、既に事業所に改装されて長い時間が経っていると考えられている。
ロニー・スコッツ・ジャズ・クラブ は、1959年 に39番地の地下室で開業し[9] 、1965年 にフリス・ストリート へ移転するまで。当地で営業していた。
脚注
参考文献
Weinreb, Ben; Hibbert, Christopher; Keay, Julia; Keay, John (2008年). The London Encyclopedia . Pan MacMillan. ISBN 978-1-4050-4924-5 。
外部リンク
座標 : 北緯51度30分42秒 西経0度07分52秒 / 北緯51.5117度 西経0.1311度 / 51.5117; -0.1311