キアはその後はスタッフォードシャーのウェスト・ブロムウッチのヒル・トップ(Hill Top, West Bromwich, Staffordshire)に居を構え、化学と地質学に没頭した。1772年、スタウアブリッジ(Stourbridge)近くのアンブルコート(Amblecote)の老舗のガラス細工事業を引き受け、複数の人との協同運営に携わった。その時期にも化学実験を続け、特にアルカリ金属の特性を研究した。論文"On the Crystallisations observed on Glass"は王立協会に友人ジョージョ・フォーダイス(Goerge Fordyce)の手を通して提出され、同協会の『哲学年報』に1776年にて公表された。
同年の初めころ、彼はフランス人科学者ピエール・ジョゼフ・マケ(Pierre-Joseph Macquer, en)の『化学辞典』(Dictionnaire de Chymie, 1766)の翻訳を完成させ、そこに補遺と注釈をつけて2巻の四つ折り本として1777年ロンドンで出版した。同年にa Treatise on the Different kinds of Elastic Fluids or Gasesを出版。ケアはバーミンガムの実業家マシュー・ボールトンと親交をもち、1768年にはボールトン宅でジェームズ・ワットと、さらに1800年ワットの息子グレゴリーを通じてハンフリー・ディビーと親交を持つ。
ジョゼフ・プリーストリーが1780年にバーミンガムに来た時、彼は、二酸化炭素と大気との区別をしたキアを有能な助手として雇った。キアはプリーストリーとともに気体の特性の研究を行った。1787年3月3日、キアは王立協会に "Experiments on the Congelation of the Vitriolic Acid"を、1788年5月1日には "Remarks on the Principle of Acidity, Decomposition of Water, and Phlogiston"を提出した。1789年に自身の『化学辞典』("Dictionary of Chemistry")第一部を出版したが、依拠していたフロギストン説の問題を認識するようになり、中断した。
1794年頃、キアとブレアはダドリーとティプトン近郊のティヴィデイル地区(Tividale area)の土地を購入し、ティヴィデイル炭鉱を建設した。キアはスタフォードシャーで鉱物学を学び、1798年にステビング・ショー(Stebbing Shaw)の History of Staffordshireに鉱物についての論文を寄稿した。1811年キアは地質学会に多くの標本付きの論文"An Account of the Strata in sinking a Pit in Tividale Colliery"を提出する。
1791年キアはルナー・ソサイエティでの友人の一人トマス・デイ(1748-1789)enの未亡人の希望に応え、デイの回想録(An Account of the Life and Writings of Thomas Day, Esq)を書いた。
同年、フランス革命への共鳴を公言したことで、ある晩餐会で激しい非難を浴び、それに対して "Extinguisher Maker"、"T. Sobersides"、"High Church Politics"といったパンフレットで自分とプリーストリーを擁護した。しかし1793年には"The Martial Character of Nations"というパンフレットを公表し、フランス人の非和平的性格から国防の必要性を訴えた。10年後にはReflections on the Invasion of Great Britain by the French Armies; on the Mode of Defence; and on the useful application of the National Levies (1803)を著した。