座標 : 北緯8度41分35秒 東経106度36分34秒 / 北緯8.69306度 東経106.60944度 / 8.69306; 106.60944
コンダオ諸島 (コンダオしょとう、ベトナム語 :Côn Đảo / 崑島 )はベトナム 東南部 、バリア=ヴンタウ省 の群島 である。全域はバリア=ヴンタウ省コンダオ県 (コンダオけん、ベトナム語 :Huyện Côn Đảo / 縣崑島 )に属する。
概要
コンダオ諸島はヴンタウ から185 km 離れた沖合にあり、大小16の島々からなる。陸地面積は合計75.15 km2 、最も大きなコンソン島 のみ有人島で、約7000人が暮らす。コンソン島にはコンダオ空港 (英語版 ) があり、230 km 離れたホーチミン市 との間に空路が開設されている。
島々は様々な時代に形成された岩漿岩 から成っている。バイカイン島(ベトナム語 :Hòn Bảy Cạnh / 𦉱梗 )、カウ島(ベトナム語 :Hòn Cau / 塊槁 )、ボンラン島(ベトナム語 :Hòn Bông Lan / 塊葻蘭 )は白亜紀 の結晶質の深成岩(Cretaceous microgranit rocks)からなる。コンダオ諸島の北の島々は石英閃緑岩 と中生代 後期から新生代 初期の花崗岩 (花崗閃緑岩)からなり、部分的に第四紀 の海洋堆積物に覆われている。南の島々とバ島(ベトナム語 :Hòn Bà / 塊婆 )は流紋岩 と時期不明の貫入岩体 から成る。コンダオ島の西側斜面は閃緑岩 と深成岩を貫く石英帯(quartz bands)がむき出し になっている[1] 。
年間に淡水の供給があるのはコンソン島とカウ島だけである[2] 。
歴史
諸島はかつてのクメール王朝 の支配地域でありコ・トララッチ(Koh Tralach)という名で知られ、17世紀までにキン族 が定住した。
1702年7月16日、イングランド王国 イギリス東インド会社 はコンソン島に入植地をつくり、インド ・中国 航路の集散拠点とした[3] 。3年後の1705年3月2日、イギリスの駐在員たちはベトナム人らに殺され、工場は破壊され、また残った者たちも島から追い出された[4] 。
ベトナム阮朝 の内紛の最中の1787年、嘉隆帝 はフランス とヴェルサイユ条約 を締結しコンダオ諸島をフランスに割譲した。しかしこの時はフランスは嘉隆帝 の支援に失敗し、条約は破棄されている。
後に1861年、諸島はフランスの支配下に置かれた。フランス領インドシナ 政府はコンダオ諸島をプロ・コンドレ(Poulo-Condore)諸島と呼んだ。これは諸島のマレー語 での呼称(Pulo Condore)に由来している[5] 。その後、コンダオ諸島は「虎の檻」のニックネームで知られる劣悪な監房を持つコンダオ刑務所 (英語版 ) として悪名を馳せた。ベトナムの民族主義者たちはこの刑務所に送られ刑期を過ごした。後には南ベトナム政府 により、ベトナム人共産主義指導者たちもまた、ここで「再教育」された。19世紀以降、延べ20万人の政治犯 が収容され、2万人以上が死んだ。現在はウミガメ の産卵など豊かな自然と、ベトナム独立・革命運動犠牲者の慰霊を目的に、観光客が多く訪れている[6] 。
コンダオ国立公園
1984年、諸島のうちの多くの島々がコンダオ国立公園 (英語版 ) として保護下に置かれた。この環境保全地域は1998年にはさらに拡大された。域内で保護対象として扱われる動物にはタイマイ 、アオウミガメ 、イルカ [7] 、ジュゴン 、オサガメ [2] が含まれ、保護対象となる生態系 には海草 の藻場 、マングローブ 、サンゴ礁 が含まれている。島々の内陸部の低山地にはコバノブラシノキ属 (英語版 ) の植物が生え、海岸沿いには海草の藻場、Bruguiera hainesii (英語版 ) のマングローブ、サンゴ礁のほか、乾燥林、浅瀬 、干潟 などもある。2013年にラムサール条約 登録地となった[2] 。
コンダオ国立公園と世界自然保護基金 はさらに広い海域での保護活動、海草藻場、サンゴ礁の保全、そして持続可能な観光産業の確立に尽力している。諸島の行政はバランスのとれた開発を目指し持続可能な環境資源の活用に力をいれている。
脚注
外部リンク
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