ケルンテン帝国大管区
Reichsgau Kärnten (ドイツ語 )
(国旗)
(国章)
国の標語: Ein Volk, ein Reich, ein Führer(ドイツ語) 一つの民族、一つの国家、一人の総統 国歌 : Deutschlands Weltklasse (ドイツ語) 世界に冠たるドイツ 党歌: Die Fahne hoch (ドイツ語) 旗を高く掲げよ ナチス・ドイツの地図
オストマルク帝国大管区群(1941年):帝国大管区、地方および都市部
ケルンテン帝国大管区 (ケルンテンていこくだいかんく、ドイツ語 : Reichsgau Kärnten )は、1938年にアンシュルス によりドイツに併合されたオーストリア の領域にナチス・ドイツ が置いた7つの帝国大管区 の1つである。ケルンテン州 および東チロル からなる。1939年に公布されたオストマルク法 に基づいて設置され、1945年まで存続した。1939年から1942年まで、オーストリア の領域に置かれた7つの帝国大管区は総称してオストマルク帝国大管区群 と呼ばれていたが、1942年にはさらにオーストリアの印象を薄めるべくドナウ=アルプス帝国大管区群 に改称された。
歴史と構造
ヒトラーとフランツ・クッチェラ(左)
ナチ党は1925年からオーストリア にも勢力を伸ばしたが、1933年にオーストリア国内では非合法化された。この時期の大管区指導者は、1934年まではハンス・フォム・コーテン、1936年まではペーター・ファイストリッツァーであった。
アンシュルス と連動した動きとして、1938年3月11日にはケルンテン州の州都クラーゲンフルト とフィラッハ ではナチ党によるデモが行われ、ナチ党大管区指導者 代理フランツ・クッチェラ とウラジミール・フォン・ポロウスキーは州首相アルノルト・ズーハーに対して執務室をポロウスキーに明け渡すよう迫った。翌日には地方行政を含むケルンテン州の全権がナチ党の手に渡り、ナチ党がオーストリアで初めて権力を握った。
1938年5月にはフーベルト・クラウスナーが州首相兼大管区指導者となったが1939年2月12日に急死し、州首相職(Landeshauptmann)はポロウスキーに移った。ポロウスキーは1939年8月から1942年6月まで州知事(Regierungspräsident)、1940年3月から1941年12月まで大管区知事(Gauhauptmann)、1940年4月からケルンテンの国家代理官 を務め、強制的同一化 による党組織と行政の一体化を取り仕切った。フランツ・クッチェラは党を率いるために暫定的に任命された。1941年11月18日には、ザルツブルク帝国大管区指導者フリードリヒ・ライナーがケルンテン帝国大管区指導者兼国家代理官に任命された。1941年にはカール・パクネクおよびフリードリヒ・ティーメルが一時的に代理を務めた。
1938年10月には東チロル がケルンテン州に編入され、オストマルク法に より1939年5月1日をもってケルンテン州に帝国大管区 が置かれた。1941年4月17日にユーゴスラビア が降伏(バルカン戦線 )すると、ミースタルとオーバークライン はドイツ国に占領され、ケルンテン帝国大管区の管理下に置かれた。 1941年11月11日にはライナーがケルンテン・クライン民政長官地域 (ドイツ語版 ) の大管区指導者兼国家代理官に任命された。ライナーはさらに1942年12月11日には全国防衛委員 にも任じられた。1943年9月8日にイタリアが降伏 すると、ライナーはアドリア海沿岸作戦地域を引き継いで「最高委員」となり、イタリアのフリウーリ 地方行政長官となった。
ナチ党支配下 において、ケルンテン帝国大管区はオーストリアの人口の約6%、ナチ党員の15.4%を占めており、13,333人の親衛隊 員がいた。
参考文献
Hellwig Valentin: Der Sonderfall. Kärntner Zeitgeschichte 1918–2004. Hermagoras/Mohorjeva, Klagenfurt/Ljubljana/Wien 2005, ISBN 3-7086-0108-4 . (für Abschnitt Zeit des Nationalsozialismus)
外部リンク