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クシャーノ・サーサーン朝の領域(青、紫)
クシャーノ・サーサーン朝 (クシャノササン朝、インド・サーサーン朝)は、3世紀 と4世紀 、及び6世紀 から7世紀 の間、インド亜大陸 の北西部に支配を確立したサーサーン朝 の分流である。
歴史
最初のクシャーノ・サーサーン朝
サーサーン朝は、パルティア に対する勝利のすぐ後、アルダシール1世 の治世中の230年 頃にはバクトリア まで領土を拡大し、彼の息子シャープール1世 (240年 - 270年)の時代にはクシャーナ朝 の旧領(今日のパキスタン と北西インド )まで拡大した。
弱体化していたクシャーナ朝は西部領土を喪失し、バクトリアとガンダーラ はクシャーンシャー (Kushanshahs クシャーナ王)と称するサーサーン朝の藩王に支配されるようになった。
325年 頃、シャープール2世 は南部領域を直接管理の下に置いていたが、北部ではキダーラ朝 の興隆までの間クシャーンシャーの支配が維持された。
インド・エフタル
410年 からバクトリア、続いてガンダーラはエフタル の侵入を受け、彼らは一時クシャーノ・サーサーン朝に取って代わった。彼らはインド・エフタル として知られるようになった。
第2のクシャーノ・サーサーン朝
突厥 西面の室点蜜 とサーサーン朝のホスロー1世 とが共同で、558年 にエフタルへの攻撃を開始し(ブハラの戦い (英語版 ) )、565年 に連合軍によってエフタルが打倒されるまでインド・エフタルによる統治は続いた。以後、再びサーサーン朝の王族がこの地に支配を確立した。
宗教的影響
預言者 マニ (210年 - 276年 マニ教 の教祖)はサーサーン朝の東への拡大につれて東へ向かった。それはマニをガンダーラで栄えていた仏教文化(ガンダーラ美術 )に触れさせることになった。彼はバーミヤーン を訪れたと言われており、そこには彼の作になるという幾つかの宗教画があり、彼が暫くの間そこに住んで教えを広めたと信じられている。また、彼は240年 か241年 に、インドのインダス川 流域に向かって出帆し、仏教徒であったトゥーラーンの王(Turan Shah)を改宗させたと伝えられている。
その際、様々な仏教の影響がマニ教に浸透したと考えられる。「仏教の影響はマニ教の教義構成にあたって重要であった。輪廻 (The transmigration of souls)の思想は、男女の僧侶らに与えられたマニ教の共同体における4つの位階(選良者 The 'elect')を定めるものとなり、それを補助した在家衆(聴講者 The 'hearers')は、仏教徒のサンガ (Sancha)を元にしたものと考えられる。(Richard Foltz , Religions of the Silk Road ).
芸術的影響
クシャーノ・サーサーン朝はサーサーン朝の皇帝が狩猟 や裁判に従事している様を描いた銀器や織物を取引した。サーサーン朝の芸術はクシャーナ朝の芸術に影響を与え、数世紀の間インド亜大陸北西部で影響力を持ち続けた。
コイン
クシャーノ・サーサーン朝は様々なコインを鋳造した。通常、コインの表には精巧な頭飾りを付けた君主が描かれ、裏にはゾロアスター教 の火の祭壇か、シヴァ 神と雄牛ナンディが描かれた。
クシャーノ・サーサーン朝の主な君主
アルダシール1世 サーサーン朝の王、及び「クシャーンシャー」 (230年頃 - 250年頃)
ペーローズ1世 「クシャーンシャー」 (250年頃 - 265年頃)
ホルミズド1世 「クシャーンシャー」 (265年頃 - 295年頃)
ホルミズド2世 「クシャーンシャー」 (295年頃 - 300年頃)
シャープール2世 サーサーン朝の王、及び「サカンシャー(Sakanshah)」 (325年頃)
バフラーム1世、2世、3世 「クシャーンシャー」 (325年頃 - 350年頃; エフタルの侵入まで存続)
ペーローズ3世 「クシャーンシャー」 (350年頃 - 360年頃; ガンダーラを支配)
関連項目
外部リンク