カラクには少なくとも鉄器時代から人が住んでおり、イスラエル人とは隣人ながら対立もしていたモアブ人の重要都市(モアブの首都でもあったとされる)・キル(Qir)があった。1958年には、カラクからモアブ文字で書かれた碑文(カラク碑文)の断片が発見されており、モアブの主神ケモシュの神殿に関する言及などがある。キルは旧約聖書ではキル・ハラセテ(キル・ヘレス、Qer Harreseth, Kir Heres)と呼ばれていた。イザヤ書15章から16章はモアブの行く末に関する預言が語られており、その中でモアブが敵に攻め滅ぼされるさまが語られ、16章11節では「わがはらわたはモアブのためにわが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように嘆く」とある。
カラクの十字軍の城は、シリアにあるクラック・デ・シュヴァリエなどと並び保存状態が非常に良い。ケラク城は1142年、エルサレム王フールクの部下ペイヤン・ル・ボーテイエ(Payen le Bouteiller)の手によって建設が始まった。十字軍の間ではこの城はクラック・デ・モアビテ(Crac des Moabites、モアブの城)またはモアブのケラク(Kerak in Moab)などと呼ばれていた。城は古くからこの地にあった高名な教会・ナザレ教会の周囲に築かれている。
ペイヤンはエルサレム王国の封臣トランスヨルダン(英語版)領主(Lord of Oultrejordain)でもあり、ケラクはさらに南の死海とアカバ湾の間にあったクラック・ド・モンレアル(Krak de Montreal、モンレアル城)に代わりトランスヨルダン領の中心となった。ヨルダン川の東岸にあったカラクは、ダマスカスからエジプトやメッカに至る交易路や砂漠に住むベドウィン諸部族を抑えることができる位置にあった。ペイヤンの死後、カラクは次のトランスヨルダン領主となった甥のモーリス(Maurice)、およびその次の領主フィリップ・ド・ミリー(Philippe de Milly、第7代テンプル騎士団総長、モーリスの娘イザベラと結婚[2])の手により塔が増築され、北側と南側には岩盤に深い防御用の堀が刻まれた(南側の堀は用水槽も兼ねていた)。現存する中で最も特筆すべき建築的特徴は北の城壁であり、その中に巨大な筒状ヴォールトのあるホールが2層にわたり造られている。これらのホールは住居および厩舎に使われたほか、城の入り口を見下ろす戦闘用の回廊として、攻城兵器から放たれる石などからの避難所としても使用された。
1176年、もとアンティオキア公でザンギー朝に囚われていたルノー・ド・シャティヨンは多額の釈放金を積んで出獄し、直後にフィリップ・ド・ミリーの娘エティエネット・ド・ミリー(Etienette de Milly / Stephanie de Milly、オンフロワ・ド・トロン3世の未亡人)と結婚してトランスヨルダン領とカラク城を手に入れた。カラク城を拠点にルノーは隊商を何度も襲い、果てはメッカへの巡礼者までをも襲った。1183年、サラーフ・アッディーン(サラディン)はルノーの度重なる攻撃の報復としてカラク城を包囲した。城内ではあたかもエルサレム王国のイザベル王女(後のエルサレム女王イザベル1世)とオンフロワ・ド・トロン4世の結婚式が行われていたが、城内からの申し出を受けたサラディンは騎士道的な態度から結婚式の行われている部屋を攻城兵器による攻撃の対象から外した。イザベルの兄ボードゥアン4世は重い病を患っていたが自ら救援の軍を率いてカラク城を死守している。