1870年代に、カラカウア王は富裕層から競馬のための常設で乾いたコースを探して欲しいという請願を受けた。裕福な競馬ファンにとってはワイキキが知られていたため、カラカウア王はダイアモンド・ヘッドふもとの現在公園が所在する場所にある、占有されておらず乾燥した平地を選んだ。スコットランド人のアーキボルド・スコット・クレッグホーン(Archibald Scott Cleghorn)が「カピオラニ公園協会」(Kapiʻolani Park Association)の副代表(のち代表)に就任した。このグループは年間1ドルで公園を30年間賃借できるようカラカウア王を説得した。協会の会員は50ドルを会費として支払い、会員はワイキキの不動産を借りることが許可された。1880年代までにハワイの最も裕福な人々は協会を通じて不動産を賃借した。ハワイ王国転覆の間に、ほとんどの不動産は市に取り戻されたか、有罪判決が下された[1]。1893年にはホノルル・クリケット・クラブにリースが与えられた。サンフランシスコのカリフォルニア・クリケット協会(California Cricket Association)のトップ選手たちが地元チームと試合を行った[2]。
ハワイ共和国時代
王国転覆の後、この地はハワイ共和国に移管され、ハワイ公園委員会(Honolulu Park Commission)によって管理された。立法者は公園を恒久的に無料の公共公園として提供し、公園内の土地の売買や貸借を禁止して、いかなる入場料を取ることも禁止した。
1913年からは、公園はホノルル市郡の公園・レクリエーション局(Department of Parks & Recreation)によって維持管理された[3]。