この項目では、451年の西ローマ帝国とフン族の戦闘について説明しています。274年のローマ帝国とガリア帝国の戦闘については「カタラウヌムの戦い (274年) 」をご覧ください。
突撃するフン族 の騎兵 (アルフォンス・ド・ヌヴィル 画)
カタラウヌムの戦い (カタラウヌムのたたかい ラテン語 : Pugna Catalaunica 仏 : Bataille des champs Catalauniques 独 : Schlacht auf den Katalaunischen Feldern 英 : Battle of the Catalaunian Plains 、フランス語 読みでシャロンの戦い とも、仏 : bataille de Châlons 英 : Battle of Châlons )は、451年 6月20日 、カタラウヌム平原 にて行われた戦闘。
西ローマ帝国 の将軍アエティウス 、西ゴート族 族長テオドリック1世 らが率いる反フン族 連合軍と、アッティラ 率いるフン族 とその隷下の部族らが衝突した。
この軍事作戦は西ローマ帝国 が行った最後の軍事遠征の一つとされているが、このローマ帝国軍の大半を占めるのは、ローマに忠誠を誓ったフォエデラティ と呼ばれるゲルマン人 部隊であった[要出典 ] 。
概要
451年 、アッティラ の率いるフン族はライン川 を渡り、ガリア に侵攻し、オルレアン を包囲した。西ローマ帝国 の将軍アエティウス はゲルマン 諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランス 、シャロン=アン=シャンパーニュ 付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受けて本拠のハンガリー平原 に退き、西ローマ帝国はフン族の征服を免れることができたが、フン族の勢力は維持された。
ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマの勢力は弱まり、ガリアへのフランク族 の侵入が始まることとなった。
この決戦は世界史上の東西両民族の大衝突の1つとしても名高い。
戦いまでの経緯
450年 頃まで、西ローマ帝国の威光はガリア 地方の隅々にまで行き届いていた。しかし、遠く離れたイタリア本土 からのガリア地方の統治は徐々に廃れていくことになる。時が進むにつれて統治力は低下し、アルモリカ 地方は既に名目上、西ローマ帝国の領域なだけに過ぎなかった。また同時に、西ローマ帝国内の領土をゲルマン人各部族は武力をもって占領し、結果的にフォエデラティ としてローマ側と協定 を結び、各部族長の下で定住し始めるようになる。
また、ライン川 北部のクサンテン からレイエ川 流域に至る領域 はすでにサリアン系フランク人 によって非公式に占領されていた。
戦闘
アッティラのガリア侵攻の報を耳にした当時の西ローマ帝国軍司令官 アエティウス は、イタリア本土 からガリアへ自軍を急展開させた。シドニウス・アポリナリス によると、アエティウスは少数の徴集兵だけで、通常兵は一人も率いていなかったと言う[ 1] 。しかしこれは、『アエティウス配下の軍団の大部分はガリアに常駐していたから』とされている[ 2] 。アエティウスはガリアに着くや否や、テオドリック1世 や西ゴート王国 の緒王らに対してアッティラと戦うように説得した。
参戦民族
名言
「我は第一の投槍を投ずるであろう。我に続くことを拒むものはただ死あるのみ」(アッティラが味方を鼓舞する際に言った言葉)
脚注
^ Sidonius Apollinaris, Carmina , 7.329.
^ Hughes, Ian (2012). Aetius: Attila's Nemesis . Barnsley, South Yorkshire: Pen & Sword Military. p. 159
関連項目
外部リンク
歴史 君主 (英語版 ) その他の人物 文化 戦争 その他の「フン族」 関連項目