エセックス王国

エセックス王国
Kingdom of Essex
Kingdom of the East Saxons
Ēast Seaxna Rīce
ブリタンニア 527年 - 825年 ウェセックス
エセックス王国の国章
(国章)
エセックス王国の位置
9世紀のエセックス王国(黄色)
公用語 古英語
首都 ロンドン
527年 - 587年 エシュウィネ英語版
604年 - 616年サベルト英語版
616年 - 617年SexredSæward(共同統治)
653年 - 660年シゲベルト良王英語版
664年 - 683年Sæbbi
798年 - 825年シゲレッド英語版
変遷
エシュウィネ英語版東サクソン人を導いて北海を越えた(伝説) 527年
シゲベルト良王英語版および聖ケッド英語版によりキリスト教653年
ウェセックス王国に併合825年

エセックス王国英語: Kingdom of Essex)もしくは東サクソン王国英語: Kingdom of the East Saxons, 古英語: Ēast Seaxna rīce)は、いわゆる七王国と呼ばれるアングロ・サクソン人による7つの国家のうちの1つである。それは6世紀に建国され、後に占領したエセックスハートフォードシャーミドルセックスおよびケント(短期間)のカウンティ(郡)の領域を支配した。エセックス王はしばしば周囲の君主に従属した。エセックスの最後の王はシゲレッド英語版であり、825年、彼はエセックス王国をウェセックス王のエグバードに譲った。

領域

王国の領域は、北はストー川英語版イースト・アングリア王国、南はテムズ川とケント、東は北海、西はマーシアに囲まれていた。その領域には、古代ローマに支配されていたブリタンニア属州時代の首都であったコルチェスターロンドンの2つの地域の遺構が含まれる。初期の王国は後のミドルセックス州に当たるミドル・サクソン英語版および[1]ハートフォードシャーの大部分の領域を支配しており[2]、ときにサリーを含んでいた可能性がある[3]8世紀の短期間、エセックス王国は現在のケントに当たる地域を支配した。

現在のイギリスにおけるカウンティとしてのエセックスは歴史的な南北の境界線を維持しているが、その領域はリー川の東に限られ、他の領域は8世紀の間に近隣のマーシアへと併合された[2]

7世紀に書かれたトリバル・ヒダーシ英語版にはエセックス王国に含まれる領域は7000ハイドであったと記されている。

歴史

エセックス王国は七王国の1つであるが、その歴史は十分な文書による裏付けがない。アングロサクソン年代記でのエセックス王国に関する言及は第三代目カンタベリー大主教であったメリトゥスに関する記述のみであり[4]、作られたアングロサクソン・チャーター英語版(中世の法的文書)も少ない[5]。そのため、王国は比較的辺鄙な地域であったと考えられている[6]。王国が存在した期間の大部分において、エセックス王はケントもしくはアングリア、マーシアの様々な君主に従属していた[7]

起源

王国を形作る地域のサクソン人による占領は5世紀前半のマッキング英語版および他の場所から始まった。これら原初の入植者たちの大部分は現在のニーダーザクセンに当たるサクソニア英語版からやってきた[8]。イギリスの歴史書であるブリトン人の歴史に書かれた伝説によると、後にエセックスとして知られる領域は、上王であるヴォーティガンによる統治の間のおよそ460年に起こった悪名高い長いナイフの夜英語版事件の後に、ブリトン人からサクソン人へと譲られた。Della Hookeはトリノヴァンテス族の前ローマ時代の領域に、エセックス王によって支配される領域を関連付けた[9]

エセックス王国は、より小さな王国[10]もしくはサクソン人の部族を吸収することによって成長した。以下に示されるこれらの小王国の場所にはいくつかの説がある。

エセックス君主

エセックスは6世紀の間に1つの王国となった。他の七王国の初期の統治者と同様に、エセックス王の在位年や名前、業績は推測に留まっている。その証拠や家系の再構成を含むエセックス王の史的な検証はヨークによって広範囲に検討された[16]。王朝は、サクソン人の神であるサクスノット(Seaxnēat)を通じてオーディンに繋がる血統であると主張している。エセックス王家の家系は9世紀ウェセックスで作成されたが、現存する写本はいくらか欠損している[17]。王国の歴史の中には時折、エセックス内で同時に支配していた数人の下位王の存在がみられる[2]。彼らは王国の異なる地域に対して権限を行使したかもしれない。東サクソンの王名表によると記録に残る初めての王は、527年に統治を開始したエシュウィネ英語版であるがその年代には若干の困難があり、他の文献によればスレッダ英語版がエセックス王家の創始者であるとされている[18]

エセックス王はマーシアからの独立を強調する一方で1世紀からの統治者との繋がりを主張し、その時代のブリテン人の王であったクノベリヌスが行ったのと同じようにコインを発行した[19]

キリスト教

イギリスにおける王国の最初期の記録であるベーダ・ヴェネラビリスによるイングランド教会史には、604年、ロンドンに後の聖人であるメリトゥス司教が到着したという記録が記されている。ベーダによれば、南イングランドの君主でありケントの王であるエゼルベルトは、スレッダの息子でありエゼルベルトの甥でもあるエセックスのサベルト王(en)をキリスト教徒へと改宗させ、604年の直後にはエセックスの一部の権限を行使する立場にあった。現在も同じ場所に立っている、セント・ポール大聖堂をロンドンに建設し、寄贈したのはサベルトではなくエゼルベルトであった。ベーダは、エゼルベルトをサベルト王の上王であると記述している[20][21]616年にサベルトが死んだ後メリトゥスはロンドンを追われ、エセックス王国はキリスト教を棄教した。これは恐らく、エセックスが反キリスト教になったというよりもむしろ、エセックス情勢へのケントの影響力への反感の結果によるものであるとされる[11]

Tilaburg(恐らくは東ティルベリー英語版であるが、西ティルベリー英語版の可能性もある)およびIthancester(ほぼ間違いなくブラッドウェル=オン=シー英語版)において修道院を設立したケッド英語版による布教活動によって、エセックス王国はシゲベルト2世英語版(シゲベルト良王)の下で再びキリスト教化した。しかし、キリスト教徒でないSwithhelm (en)がエセックス王へと昇ったため、660年に再度エセックス王国はキリスト教を棄教した。Swithhelmは662年にキリスト教へと改宗したが664年に死亡し、二人の息子であるSigehere(en)とSæbbi(en)が跡を継いだ。同年に起こった疫病のためにSigehereとその家族はキリスト教を棄教し、エセックス王国は三度キリスト教を棄教した。この反抗は、君主としての名声を確立したマーシア王のウルフヘレによって鎮圧された。ベーダはSigehereとSæbbiを「マーシア王ウルフヘレの下の統治者である」と記述している[22]。ウルフヘレはエセックス王国を再度キリスト教化するためにリッチフィールド (スタッフォードシャー)の司教であるJarumanを送った[23]

666年ワイン英語版および675年のEarconwald(en)は、エセックス王国に対する宗教的な権限を有する任命されたロンドンの司教だった。ロンドンを含むミドルセックスの領域は8世紀にエセックスから失われたが、1845年まで州およびカウンティとしてロンドンの司教はエセックスに対して宗教的な権限を行使し続けた[24]

2003年、王家のものと思われる墓所がプリトルウェル英語版で発見され、発掘された(Royal Saxon tomb in Prittlewell)。そこから金箔の貼られた十字架が発見され、埋葬された者がキリスト教徒であったことが示唆された。埋葬されている王は恐らくサベルトもしくは653年に殺されたシゲベルトであると考えられる。しかし、埋葬されているのが王族でなく、その業績が記録されていない裕福で権力のあった単なる一個人である可能性もある[25]

その後の歴史と終焉

エセックス王国は比較的無名であったにもかかわらず、エセックス王スレッダとケント王エゼルベルトの妹リクラが結婚したように、テムズ川を挟んだケント王国との間に強い関係を持っていた。8世紀の短期間、エセックス王国は南部にケント王国を含んでいた。この期間中エセックス王は、恐らく彼ら自身の独立の主張として、彼ら自身のコイン (Sceat)を発行していた[26]。しかし8世紀中頃までに、ロンドンを含むエセックス王国の大部分はマーシアの手に落ち、大まかに言えば現在のエセックスカウンティに当たる部分だけが残され、エセックス王国はマーシアに従属した[27]825年頃のマーシア王ベオルンウルフの敗北の後、エセックス王国最後の王シゲレッド英語版はエセックスを占領していたウェセックスエグバートに王国を割譲した[28]

エセックス王国がウェセックスに併合されて以降もマーシアは獲得していた元エセックス王国の地域を支配し続け、825年に東サクソン人の王シゲリックがマーシアのチャーターに署名して以降、恐らくマーシアはエセックス王位を望む者を支援した[29]。9世紀の間のエセックスは、エセックス、サリーおよびケントを含んだ下位の王国の一部であった[29]878年から886年の間、エセックスはウェセックスのアルフレッド大王デーン人の首長グスルムとの間に交わされた条約(en)の下に、イースト・アングリアデーンロウへと割譲された。その後、この地域はアルフレッド大王の息子であるエドワード長兄王によって再征服された。エセックスにおける王の代理人はエアルドルマン英語版と呼ばれ、エセックスは国ではなく地方(シャイア)として考えられるようになっていった[30]

王名表

在位期間 国王 綴り 注記事項
527年 - 587年 エシュウィネ英語版 ÆSCVVINE CENFVSING ESTSEAXNA CYNING
ÆSCVVINE REX SAXONVM ORIENTALIVM
587年 - 604年以前 スレッダ英語版 SLEDDA ÆSCVVINING ESTSEAXNA CYNING
SLEDDA REX SAXONVM ORIENTALIVM
604年以前 - 616年もしくは617年 サベルト英語版 SÆBRYHT SLEDDING ESTSEAXNA CYNING
SÆBRYHT REX SAXONVM ORIENTALIVM
616年もしくは617年 - 617年 Sexred SEXRED SÆBRYHTING ESTSEAXNA CYNING
SEXRED REX SAXONVM ORIENTALIVM
Saewardとの共同統治。ウェセックスとの戦いで死亡した。
616年もしくは617年 - 617年 Sæward SÆVVARD SÆBRYHTING ESTSEAXNA CYNING
SÆVVARD REX SAXONVM ORIENTALIVM
Sexredとの共同統治。ウェセックスとの戦いで死亡した。
617年 - 653年以前 シゲベルト1世英語版
(シゲベルト小王)
SIGEBRYHT SÆVVARDING ESTSEAXNA CYNING
SIGEBRYHT PARVVS REX SAXONVM ORIENTALIVM
653年頃 - 660年 シゲベルト2世英語版
(シゲベルト良王)
SIGEBRYHT SÆVVARDING ESTSEAXNA CYNING
SIGEBRYHT SANCTVS REX SAXONVM ORIENTALIVM
Saint Sigeberht; Saint Sebbi(8月29日の祭日)
660年 - 664年 Swithelm SVVIÞELM ESTSEAXNA CYNING
SVVIÞELM REX SAXONVM ORIENTALIVM
664年 - 683年 Sighere SIGHERE SIGEBRYHTING ESTSEAXNA CYNING
SIGHERE REX SAXONVM ORIENTALIVM
Sebbiとの共同統治
664年 - 694年頃 Sebbi SEBBI ESTSEAXNA CYNING
SEBBI REX SAXONVM ORIENTALIVM
Sighereとの共同統治。彼の息子のSigeheardに王位を譲って退位した。
694年頃 - 709年頃 Sigeheard SIGEHEARD SEBBING ESTSEAXNA CYNING
SIGEHEARD REX SAXONVM ORIENTALIVM
彼の兄弟であるSwaefredとの共同統治[31]
695年頃 - 709年以前 Swaefred
(Swaebheard)
SVVÆFRED SIGEHEARDING ESTSEAXNA CYNING
SVVÆFRED REX SAXONVM ORIENTALIVM
彼の兄弟であるSigeheardとの共同統治[31]
709年 オッファ OFFA SIGEHERING ESTSEAXNA CYNING
OFFA REX SAXONVM ORIENTALIVM
放棄
709年頃 - 746年 Saelred
(Swebert)
SÆLRED SIGEBRYHTING ESTSEAXNA CYNING
SÆLRED REX SAXONVM ORIENTALIVM
おそらくはSwaefbertとの共同統治
715年頃 - 738年 Swaefbert SVVÆFBRYHT ESTSEAXNA CYNING
SVVÆFBRYHT REX SAXONVM ORIENTALIVM
おそらくはSaelredとの共同統治
746年 - 758年 Svvithred SVVIÞRED SIGEMVNDING ESTSEAXNA CYNING
SVVIÞRED REX SAXONVM ORIENTALIVM
758年 - 798年 シゲリック英語版 SIGERIC ESTSEAXNA CYNING
SIGERIC REX SAXONVM ORIENTALIVM
放棄
798年 - 812年 シゲレッド英語版 SIGERED SIGERICING ESTSEAXNA CYNING
SIGERED REX SAXONVM ORIENTALIVM
812年 - 825年 SIGERED DVX SAXONVM ORIENTALIVM マーシアの君主よりも下位の身分
825年頃 マーシアウェセックスエグバートによって敗れ、ウェセックスに内包されるエセックス小王国となった。

系図

 
 
 
エシュウィネ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スレッダ
 
リクラ
(ケント王エルメンリック娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サベルト
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サクスバルド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Sexred
 
 
 
Sæward
 
 
 
シゲベルト2世
 
Swithelm
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オシス
(マーシア王ペンダ孫)
 
シゲベルト1世
 
 
 
Sebbi
 
Saelred
(Swebert)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Sighere
 
 
 
Sigeheard
 
Swaefred
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オッファ
 

出典

  1. ^ Keightley, A., The History of England, (1840)
  2. ^ a b c Yorke, B., Kings and Kingdoms of Early Anglo-Saxon England,(1984) pp47-52
  3. ^ John Baker, Cultural Transition in the Chilterns and Essex Region (University of Hertfordshire Press, 2005)
  4. ^ Campbell, James, ed (1991). The Anglo-Saxons. Penguin. p. 26 
  5. ^ a b Rippon, Stephen, Essex c. 760 – 1066 (in Bedwin, O, The Archaeology of Essex: Proceedings of the Writtle Conference (Essex County Council, 1996)
  6. ^ H Hamerow, Excavations at Mucking, Volume 2: The Anglo-Saxon Settlement (English Heritage Archaeological Report 21, 1993)
  7. ^ Yorke, Barbara (1985). “The Kingdom of the East Saxons”. In Clemoes, Peter; Keynes, Simon; Lapidge, Michael. Anglo-Saxon England 14. Cambridge University Press. pp. 31–36 
  8. ^ Yorke, Barbara (1985). “The Kingdom of the East Saxons”. In Clemoes, Peter; Keynes, Simon; Lapidge, Michael. Anglo-Saxon England 14. Cambridge University Press. p. 14 
  9. ^ Hooke, Della (1998). The Landscape of Anglo-Saxon England. Leicester University Press. p. 46 
  10. ^ a b Andrew Reynolds, Later Anglo-Saxon England (Tempus, 2002, page 67) drawing on S Bassett (ed) The Origin of Anglo-Saxon Kingdoms (Leicester, 1989)
  11. ^ a b Yorke, Barbara, Kings and Kingdoms of Early Anglo-Saxon England (1990)
  12. ^ Pewsey & Brooks, East Saxon Heritage (Alan Sutton Publishing, 1993)
  13. ^ Yorke, B., Kings and Kingdoms of Early Anglo-Saxon England,(1984) p54
  14. ^ a b c Hooke, Della (1998). The Landscape of Anglo-Saxon England. Leicester University Press. p. 47 
  15. ^ VCH, volume 5
  16. ^ Yorke, Barbara (1985). “The Kingdom of the East Saxons”. In Clemoes, Peter; Keynes, Simon; Lapidge, Michael. Anglo-Saxon England 14. Cambridge University Press. pp. 1–36 
  17. ^ Yorke, Barbara (1985). “The Kingdom of the East Saxons”. In Clemoes, Peter; Keynes, Simon; Lapidge, Michael. Anglo-Saxon England 14. Cambridge University Press. p. 3 
  18. ^ Yorke, Barbara (1985). “The Kingdom of the East Saxons”. In Clemoes, Peter; Keynes, Simon; Lapidge, Michael. Anglo-Saxon England 14. Cambridge University Press. p. 16 
  19. ^ Metcalf, DM (1991). “Anglo-Saxon Coins 1”. In Campbell, James. The Anglo-Saxons. Penguin. pp. 63–64 
  20. ^ Bede, book II, chapter 3
  21. ^ Stenton, Anglo-Saxon England, p. 109.
  22. ^ Kirby, The Earliest English Kings, p. 114.
  23. ^ Bede, HE, III, 30, pp. 200–1.
  24. ^ Essex archdeaconry through time
  25. ^ Blair, I. 2007. Prittlewell Prince. Current Archaeology 207: 8-11
  26. ^ Rippon, Stephen. “Essex c.700 - 1066”. In Bedwin, O. The Archaeology of Essex, proceedings of the Writtle conference. p. 117 
  27. ^ Brooke, Christopher Nugent Lawrence; Keir, Gillian (1975). London, 800-1216: the shaping of a city. University of California Press. p. 18 
  28. ^ Swanton, Michael, ed (1996). The Anglo-Saxon Chronicles. Phoenix Press. p. 60 
  29. ^ a b Cyril Hart The Danelaw (The Hambledon Press, 1992, chapter 3)
  30. ^ Hart, Cyril (1987). “The Ealdordom of Essex”. In Neale, Kenneth. An Essex Tribute. Leopard's Head Press. p. 62 
  31. ^ a b Handbook of British Chronology (CUP, 1996)

参考文献

  • Clive Carpenter, Guinness Book of Kings, Rulers and Statesmen, Guinness World Records Limited, 1978.
  • Martha Ross, Rulers and Governments of the World, Vol.1, Earliest Times to 1491, Rr Bowker Llc; Revised, 1977.
  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年

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