1803年10月20日にデヴォン州志願兵南方連隊のローバラ大隊(Roborough Battalion of the Southern Regiment of Devonshire Volunteers)の大尉に任命された[6]。
弁護士業
Patentee of subpoena officeという年収855ポンドに相当する大法官庁裁判所(英語版)の閑職を1778年より(すなわち、幼児のときから)務めた[3]。この閑職は1852年10月28日に廃止された[7]。
1793年にリンカーン法曹院に入学、1799年に弁護士資格免許を取得した[3]。1802年より破産監督委員(英語版)を務めたほか[1]、アン女王基金(英語版)の法律顧問を務めたこともあった[3]。いずれも1817年に退任しており、同年より大法官庁裁判所の秘書官(master in Chancery、年収3,000ポンドの官職)の1人を務めた[3]。その後、1826年1月に貴族院秘書官(英語版)補佐(clerk-assistant of the Parliaments、年収4,000ポンドの官職)に転じ[8]、1835年に爵位を継承するまで務めた[1]。
1841年から1846年まで首相を務めた保守党のサー・ロバート・ピールは合同法廃止運動への対抗として、穏健な改革策を推進するようになり、1843年11月にはデヴォン委員会(英語版)(正式名称:Royal Commission on the state of the law and practice relating to occupation of land in Ireland)を設立した[12][13]。この委員会はデヴォン伯爵が議長を務めており、委員会の通称「デヴォン委員会」の由来となった[14]。委員会はアイルランドにおける土地占有の法律と慣習への調査が目的であり、1845年にState of the law and practice in respect to the occupation of land in Ireland: evidence taken before Her Majesty's Commissionersと題する報告書を提出した[12][14]。この報告書では借地人が土地改良を行った場合、借地人がその土地から離れるときに地主から改良への賠償金を支払われるべきとされ、この勧告に基づく法案は1845年6月に貴族院に提出されたが、最終的には可決されなかった[12]。結局、報告書に基づく改革が行われる前にジャガイモ飢饉が勃発してしまった[15]。
^ abcdefghiFisher, David R. (1986). "COURTENAY, William (1777-1859).". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月2日閲覧。
^ abcSymonds, P. A.; Fisher, David R. (1986). "Honiton". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月2日閲覧。
^ abcdeSymonds, P. A.; Fisher, David R. (1986). "Exeter". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月2日閲覧。
^Jenkins, Terry (2009). "Exeter". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月2日閲覧。