アーベル–ルフィニの定理 (アーベル–ルフィニのていり、英 : Abel–Ruffini theorem )は、五次以上の代数方程式 には解の公式が存在しない、と主張する定理 である。より正確には、5以上の任意の整数 n に対して、一般の n 次方程式を代数的に解く方法は存在しない、という定理である。
概要
方程式を「代数的に解く」とは、与えられた方程式の係数 から出発して四則演算 と冪根 をとる操作を有限回繰り返し、方程式の根を表示することをいう。単に「冪根によって解く」ともいう。このようにして得られる表示可能な数の全体は、係数体 に適当な冪根を添加して拡大 したものとなるが、もし方程式に代数的な解の公式が存在するなら、根がそのような拡大体のどこかに含まれているはずである。従って、「代数方程式が代数的に解ける」、すなわち「代数方程式の根が冪根による表示をもつ」とは、次のように定義される。
方程式の係数を含む体 に適当な冪根を添加して体を拡大していき、その中に根を含むようにできる。
アーベル–ルフィニの定理からは、五次以上の一般代数方程式ではこのような拡大が十分に行えないことが結論される。
代数学の基本定理 が示す通り、n 次方程式は複素数 の範囲で本質的に n 個の根を持つが、それを四則演算と冪根の有限回の繰り返しによって表示できるとは限らないことになる。代数的に解けない場合についてはこの定理は触れていない。例えば三次方程式のビエトの解 のように三角関数 によって表示できたとしても代数的に解けたとはいわない。また五次以上でも特定の条件付き方程式ならば解く事ができ、このようなものの一部はアーベル方程式 と呼ばれる。もっとも単純なアーベル方程式は1の冪根 を根にもつ x n = 1 であり、これが代数的に可解であることはカール・フリードリヒ・ガウス により証明された。
一時この定理は完全な形で提出したニールス・アーベル にその功績が帰されていたが、現在ではパオロ・ルフィニ の貢献を入れてアーベル–ルフィニの定理 とする表記が多い。これはアーベルの業績になる定理が多く、単に「アーベルの定理 」というと区別しにくいという事情も関係している。
歴史
Paolo Ruffini , Teoria generale delle equazioni , 1799
17世紀 前半からアルベール・ジラール (英語 : Albert Girard ) らによって主張されてきた代数学の基本定理 により、5次以上の方程式にも次数と等しいだけの根があること自体は明らかであったので、五次方程式は「解けるに違いないが非常に難しい問題」と捉えられていた。
1770年 頃、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ やヴァンデルモンド (英語 : Alexandre-Théophile Vandermonde ) は 4次以下の代数方程式の解法について置換 を用いて(独立に)考察を行い、それらが代数的に解けた原因を与えた。
同様の考察を五次方程式に適用すると、より高次の方程式を解かねばならず破綻してしまうため、それ以上には進まなかった。
しかし、これらの研究を源とする代数的可解性の原則やラグランジュ分解式などが、その後の代数的方程式論の発展に繋がる突破口に結びついた。
カール・フリードリヒ・ガウス は、五次方程式の代数的な解法が不可能問題であることに確信を持っていた。数学的な根拠は出さなかったものの、学位論文でそのことに触れた他、『整数論 』(1801年) の中でも「不可能なのはほぼ確実」と断定している。また、『整数論』において円分方程式
x
n
=
1
{\displaystyle x^{n}=1}
は次数の低い円分方程式から逐次的に解ける事を示し、代数的に可解である事を証明した。これは、一般的には代数方程式を代数的に解く事は不可能である一方で、代数的に可解な代数方程式にはどのようなものがあるかを個別に調べるという方向の研究である。
五次方程式の解法の不可能性について、本質的な仕事はパオロ・ルフィニ によるものと考えられている。ルフィニはラグランジュの考えた置換 の理論を引き継いで1799年 に『方程式の一般理論』と題した 2本の論文を出版したものの、論文は長くて分かりづらい上に欠陥があった。数学者達からの反論に対し、ルフィニは友人のピエトロ・アバティ・マレスコッティ (英語 : Pietro Abbati Marescotti ) の協力も得て欠陥を取り除いたり簡略化したりして1813年 まで 6 種類の証明を出版した。ラグランジュからは認められなかったが、オーギュスタン=ルイ・コーシー はルフィニの証明を絶賛し、1815年 に置換論として発展させた。ここではコーシーの記法を導入し、簡略化にも成功している。
1821年 にアーベルは五次方程式の解法を発見したが、コペンハーゲン大学の数学者デーエンから具体例を聞かれて間違いに気付き、ラグランジュやコーシーの論文を熱心に読んで不可能性の証明へと向かう。しかし、地理的な問題もあり大数学者ではなかったルフィニの論文は存在すら知らなかった。
1823年 の末に証明は完成し、翌1824年、最初の論文「5次の一般方程式の解法の不可能性を証明する代数方程式についての論文」(Abel, “Mémoire sur les équations algébriques, où l'on démontre l'impossibilité de la résolution de l'équation générale du cinquième degré”) を自費出版した。経費節約のため簡潔にして 6ページしかなかったこともあり、誰からも理解されなかった。さらに1826年には、詳細に書いた「パリ論文」と呼ばれる論文「4次より高い次数の代数方程式を一般には解くことが不可能であることの証明」(Abel, “Dèmonstration de l'impossibilité de la résolution algébrique des équations générales qui passent le quatrième degré”) をパリ科学アカデミーに提出した上、クレレにドイツ語に翻訳してもらいクレレ誌 の創刊号に20ページほどの論文として載せてもらっている。この年、アーベルはパリに留学した際にルフィニの論文の存在を知り、その内容について「代数的可解性の原則」と呼ばれる根本的な性質の証明が足りない事に気付いた[注 1] 。
一方、エヴァリスト・ガロア はアーベルとは独立にほぼ同じ経路を辿っていた。アーベルの仕事については知らなかったが、後に恩師に薦められてクレレ誌に載ったアーベルの論文を読み、高く評価した。コーシーが自分の時と同じく、アーベルの論文も紛失したことに憤慨する手紙が残されている。
どちらの証明も、本質的にはガロア群 の構造に触れることで不可能性を証明しているが、アーベル、ルフィニらは「群 」の概念を明確に意識しておらず、技巧的な証明に留まっていた。ガロアの証明は「どのような方程式が、なぜ代数的に可解なのか」という命題を念頭に置いたものであり、その後の研究でガロアは群の概念に到達しガロア理論 を構築した。20世紀以降の代数学や方程式論等の教書で紹介されるアーベル-ルフィニの定理の証明のほとんど全てはガロアによる証明であり、アーベルやルフィニの証明は歴史的意義を強調する場合以外ではあまり参照されていない。
年表
脚注
注
^ ルフィニの欠陥を現代的に書けば次のような事になる。 上記の通り、公式が存在するかどうかは、係数体を起点に零点を記述できる体までのベキ根拡大列が作れるかどうかに帰着する。ルフィニはここで、零点
t
1
,
.
.
.
t
n
{\displaystyle t_{1},...t_{n}}
からなる有理関数体
L
=
C
(
t
1
,
.
.
.
,
t
n
)
{\displaystyle L=\mathbb {C} (t_{1},...,t_{n})}
への拡大列がない事を証明した。 問題は、
L
{\displaystyle L}
が零点を含む体の中で最小のもの だという事である。例えば、
t
1
{\displaystyle t_{1}}
の代わりに
t
1
{\displaystyle {\sqrt {t_{1}}}}
を含む
L
′
=
C
(
t
1
,
t
2
,
.
.
.
,
t
n
)
⊃ ⊃ -->
L
{\displaystyle L'=\mathbb {C} ({\sqrt {t_{1}}},t_{2},...,t_{n})\supset L}
のようなものに対して、
L
{\displaystyle L}
を経由せず一足飛びに
L
′
{\displaystyle L'}
を得るような拡大の可能性は考慮されていない。この点を厳密に論じたのがアーベルで、ルフィニの証明が結果的には十分だった事が示された。
出典
関連文献
外部リンク