モアッサン家はトゥールーズからパリに移り住み、そこでアンリ・モアッサンが生まれた。父は東部鉄道の下級管理職で、母はお針子だった。1864年に一家はモーに移り、モアッサンはそこで地元の学校に通った。1870年、大学入学資格を得ないまま学校を去り、パリの薬屋で働き始める。そこでヒ素中毒の人を助けるという体験をし、化学を勉強することを決心した。まずエドモンド・フレミーの研究室で学び始め、後に Pierre Paul Dehérain に師事した。Dehérain は彼に学歴をつけるよう説き伏せた。モアッサンは大学入学に必要なバカロレアを何度か失敗した末の1874年に取得した。
1874年、モアッサンは Dehérain と共同で初めての学術論文を発表した。それは植物における二酸化炭素と酸素の代謝についての論文だった。その後、植物生理学から無機化学へと転向し、自然発火性の鉄に関する研究が当時のフランスの無機化学をリードしていた2人の化学者アンリ・サンクレール・ドヴィーユとアンリ・ドブレに注目された。1880年に博士号を取得すると、ある研究所での職を友人から紹介された。1882年に結婚、1885年に息子が生まれている。1880年代のモアッサンはフッ素の研究、特にフッ素の分離に注力していた。モアッサンは自前の実験室を持っておらず、シャルル・フリーデルらの実験室を借りていた。そこに90個のブンゼン電池を使った強力な電池があり、モアッサンは三塩化ヒ素の電気分解によって気体が発生する様子を観察できた。その気体は三塩化ヒ素に再び吸収される。1886年6月26日、フッ化水素の電気分解によってフッ素が分離できた。フランス科学アカデミーは3人の代理人マルセラン・ベルテロ、アンリ・ドブレ、エドモン・フレミーを送り、その報告が正しいか確認させた。しかし、このときモアッサンは実験を再現することができなかった。実は、最初の実験でフッ素が得られたのは、フッ化水素に不純物としてフッ化カリウムが含まれていたせいであり、今回の実験ではそれが含まれていなかった。その後問題に気づき、何度かフッ素の分離を実演し、最終的に1万フランの賞金を得た。その後1891年まではフッ素の研究に明け暮れた。モアッサンは様々なフッ素化合物を発見しており、例えば1901年には Paul Lebeau と共に六フッ化硫黄を発見した。
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Royère, C (March 1999). “The electric furnace of Henri Moissan at one hundred years: connection with the electric furnace, the solar furnace, the plasma furnace?”. Annales pharmaceutiques françaises57 (2): 116–30. PMID10365467.