アンドレ・ドラン

アンドレ・ドラン

アンドレ・ドランAndre Derain, 1880年6月10日 - 1954年9月8日)は、フォーヴィスム(野獣派)に分類される20世紀フランス画家イヴリーヌ県シャトゥー出身。

アンリ・マティスらとともにフォーヴィスム(野獣派)の運動において指導的役割を果たした画家。風景、人物、静物などさまざまな画題の作品がある。作風も、ポール・シニャック風の点描に近い技法を用いた風景画から、キュビスム風の静物画まで幅広い。

生涯

1898年アカデミー・カリエールに入学。そこでマティスやマルケと知り合う。1900年、独学で絵を描いていたモーリス・ド・ヴラマンクと知り合う。ドランとヴラマンクはシャトゥーに共同のアトリエを設け、以後しばらく共同制作をする。

1905年、マティスとともにコリウールに滞在し制作する。地中海に面した港町コリウールの豊かな色彩は2人の画家の作風に決定的な影響を与えた。この年の秋のサロン・ドートンヌで、マティスらグループの作品が集められた部屋は批評家のルイ・ヴォークセルによって「野獣の檻」と称せられた。これが野獣派(フォーヴィスム)の名の由来である。

1905年末から1906年初めにかけて、画商アンブロワーズ・ヴォラールの勧めでロンドンに滞在し、テムズ川沿いの風景を描く。1907年からはピカソなど「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)の画家たちとも交流するようになる。

1919年バレエ・リュスセルゲイ・ディアギレフ主宰)の「風変わりな店」の美術と衣装を手掛けたのを最初として、晩年までバレエオペラの衣装や舞台装飾も手掛ける。また、挿絵、彫刻なども手掛けている。

1921年イタリア旅行を機に作風はアカデミックなものに回帰し、古典的な陰影や遠近法、落ち着いた色彩で静物、人物等を描くようになる。ヴィシー政権下ではパリに居を構え、ナチス・ドイツにフランス文化の権威として利用される形となり、1941年にドイツを訪れている。このために、終戦後にナチス協力者とみなされて事実上の追放処分となった。晩年には病により片目の視力を失い、1954年オー=ド=セーヌ県ガルシェで自動車事故により死亡した。

代表作

関連項目