これはMoses Ben Tibbonによってヘブライ語に訳された。後マイケル・スコットによってヘブライ語からラテン語に訳され、13世紀の前半においては広い関心をよんだ[3][4]。例えば、ロジャー・ベーコンなどは彼の説に好意的だった。だが、大勢は観測との不整合などを理由に、プトレマイオス理論の受容に向かった。ただその後も、折に触れてアルペトラギウスの同心球体説への関心は呼び覚まされる。例えば、レギオモンタヌスも批判をしながらも影響を受ける[4]。コペルニクス『天球の回転』でも第1巻10章で惑星の配列の順序が引用されている。1529年には Calo Calonymus ben Davidによって新たなラテン語訳が作られ2年後に Sphaerae tractatusに組み込まれて出版された[3]。ティコ・ブラーエのウラニボリの仕事場には、プトレマイオス、コペルニクススなどと並んでアルペトラギウスの肖像画が飾られた[5][6]。