アルナ・シャンバグ (英語 : Aruna Shanbaug , 1948年 7月1日 – 2015年 5月18日 )は、インド の看護師 である。
概要
ムンバイ のキング・エドワード記念病院 (英語版 ) (KEM Hospital)に勤務していた1973年 に性犯罪 の被害を受け、2015年に死去するまで植物状態 にあった。
植物状態に陥ってから37年後の2011年 、安楽死 に関するインドの議論の中において注目を集めたことでも知られる[1] 。
被害
アルナ・シャンバグは1948年 7月1日 に、インド のカルナータカ州 で誕生した[2] [3] [4] 。キング・エドワード記念病院 (英語版 ) において看護師 として働き、同病院の医師 と婚約していた[5] 。
1973年 11月27日 の夜、24歳であった彼女は病院の地下室で更衣を行っていたところ、同病院の契約清掃員であったソハンラル・バルタ・ウォルミキ(Sohanlal Bhartha Walmiki)に性的暴行 を受けた[6] 。ウォルミキは彼女の首を鎖 を用いて強く絞め、彼女の頸動脈 が遮断されたことにより、脳への血液供給がなされなくなった。この結果脳挫傷 、頸髄損傷 、皮質盲 (英語版 ) などに至った[7] 。彼女は翌朝の朝7時45分に別の清掃員によって発見された。
加害者
加害者のウォルミキは暴行 と強盗 の容疑によって逮捕 された。裁判の結果懲役 7年の刑に処せられた。強姦 や痴漢 、不自然な性行為 といった罪状[注釈 1] では有罪判決を受けなかった。ウォルミキは1980年 に刑期を満了し釈放 された。
ジャーナリスト であり人権活動家 でもあるピンキ・ビラニ (英語版 ) は彼の追跡を試みたものの、キング・エドワード記念病院、ウォルミキが収監された刑務所 、裁判を行った裁判所 全てが彼の写真を保有していなかったため失敗した[9] 。また彼はエイズ もしくは結核 によって釈放後に死去したという噂も存在した。
しかし、シャンバグの死後すぐの2015年 5月29日 にジ・インディアン・エクスプレス (英語版 ) は、ウォルミキが故郷の村に帰ったのちに義父の住むウッタル・プラデーシュ州 のパルパ村(Parpa)で生存していることを明らかにした。ウォルミキはその地で結婚 し発電所 にて働いていた。ウォルミキはジ・インディアン・エクスプレスのインタビュー において、「カッとなって(fit of rage)」事件を起こしたが、明確な記憶がないと前置きしたうえで、強姦は行っておらず、別の誰かによって行われたと主張した。なお事件当時のウォルミキは、立ち位置が上であったシャンバグとの関係が不調であり、休暇をとることを拒否されたことによって「口論及び身体的な戦い」があったと述べていた[10] 。
看護師のストライキ
彼女は事件後遷延性意識障害 となり、勤務していたキング・エドワード記念病院で入院治療が行われていた。ムンバイ の看護師 はシャンバグ及び看護師の地位向上を求めてストライキ を行った[11] 。また1980年代 には大ムンバイ市公団 (英語版 ) (BMC)が彼女のベッドを移動させようと二度試みたものの、KEMのスタッフによって阻止された[12] 。
安楽死議論
2010年 12月17日 、インド最高裁判所 はピンキ・ビラニ (英語版 ) が提出したシャンバグの消極的安楽死 [注釈 2] 許可を求める請願書を受け取り、マハーラーシュトラ州 政府とムンバイの病院に対して、シャンバグの健康状態に関する報告を求めた[13] [14] 。2011年 1月24日 にはインド最高裁の指示のもと、3人からなる医学的な審議会 が発足し、彼女が永久的な植物状態であると判断する基準の、ほぼ全てを満たしていると結論付けた[15] 。
2011年 3月7日 、インド最高裁判所は消極的安楽死を合法化するガイドラインを発表した[16] [17] 。そのガイドラインにおいて、生命維持中止決定は、両親、配偶者、その他の近親者、またはそれらがいない場合は「次の友人」(next friend)によってなされなければならないとした。これによってビラニは消極的安楽死を決定することはできなくなったが、「次の友人」としてKEMのスタッフが指名された。KEMのスタッフはシャンバグが生き続けることを望んでいたため消極的安楽死は行われなかったが、裁判所は彼らが消極的安楽死を行う許可を求めることが出来るようオプションを与えた。
私たちはビラニさんが行ったことを、批判したり軽蔑したりはしません。むしろ彼女の示した素晴らしい社会的精神に対して感謝の意を示します。また彼女の社会的運動を高く評価しています。私たちが言いたいことは彼女がいくら素晴らしくても、この38年間シャンバグをサポートし続けた私たちには敵わないということです。
— KEMのスタッフ、[18] :127-128
彼女の死
死亡する数日前にシャンバグは肺炎 と診断された。集中治療室 に移され人工呼吸器 を装着されたものの、2015年 5月18日 の朝に亡くなった[1] 。彼女の葬儀は42年間彼女をサポートし続けた病院のスタッフによって執り行われた[19] 。
脚注
注釈
出典
関連項目