スウィンバーンはフランスの詩形ロンドー(Rondeau)の変化形である、ロンドー体(ロンデル、ラウンデル)を考案した。その形式で書かれた詩のいくつかはクリスティーナ・ロセッティに捧げた『A Century of Roundels』の中にある。スウィンバーンは1883年にエドワード・バーン=ジョーンズにこう書き送っている。「私はある形式ですべての韻律を使ったささやかな歌(songs)、いえ小歌(songlets)の新しい本を書き……ちょうど出版したところです。その本の献呈をミス・ロセッティも受諾してくれました。私はあなたとジョージー[1]が、100ある9行詩の中にお気に入りのものを見つけられることを望みます。ちなみに、そのうち24の詩は赤ちゃんや小さな子供たちについて書いたものです」。それらの詩に対する評価は、魅力的で素晴らしいと絶賛する人から、単に賢いだけで不自然だという批判する人までさまざまだった。ちなみに、『A Baby's Death』という詩には、イギリスの作曲家サー・エドワード・エルガーが曲をつけた(1897年)。
スウィンバーンはアルコール使用障害で、SM趣味で、非常に激しやすい性格だった。それがたたってスウィンバーンの健康は損なわれ、1879年、42歳の時、精神的にも肉体的にも衰弱し、友人のセオドア・ワッツ=ダントン(en:Theodore Watts-Dunton)の世話で、プットニー(en: Putney)のNo. 2 The Pinesで残りの人生を送ることになった。以降のスウィンバーンは若い頃の反抗精神を失って、社会からも尊敬される人物となった。1909年4月10日、72歳でスウィンバーンは亡くなり、ワイト島のBonchurch(en:Bonchurch)に埋葬された。
スウィンバーンの語彙、押韻、韻律についての通暁ぶりは、スウィンバーンを文学史上才能ある英語詩の詩人の1人に数えて差し支えないほどだが、そのけばけばしいスタイルと、意味よりも押韻を重視した言葉の選び方については批判する意見もある。スウィンバーンはジョージ・セインツベリー(en:George Saintsbury)の『History of English Prosody』第3巻のヴァーチャル・スターであり、より韻律的でいくぶん敵対的な批評家A・E・ハウスマンもスウィンバーンの押韻の能力を賞賛する短評を捧げている。
『The Contemporaries of Shakespeare』や『The Age of Shakespeare』の中の、シェイクスピア風やベン・ジョンソン風の劇作家についてのスウィンバーンのエッセイを読んだT・S・エリオットは、詩人が詩人について書いたものとして、スウィンバーンが題材に精通し、スウィンバーンの先達でロマン派の詩人たち、つまり、「ウィリアム・ハズリット、サミュエル・テイラー・コールリッジ、チャールズ・ラム以上に頼りになるガイド」であるとは認めたものの、スウィンバーンの散文については、形容詞の取り乱したわめき、規律に欠けるセンテンスの強引な乱発は、短気さとおそらく混乱した精神の無精さの徴候である」と分析している。