アグスティン・ガインサ・ビカンディ(Agustín Gaínza Vicandi, 1922年5月28日 - 1995年1月6日)は、スペイン・ビスカヤ県バサウリ出身のサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはFW。ピル(Piru)という愛称を持つ。選手時代はアスレティック・ビルバオ一筋であり、キャプテンを務めた。スペイン代表としては33試合に出場して10得点を挙げ、4位となった1950 FIFAワールドカップ・ブラジル大会でキャプテンを務めた[2]。
経歴
選手時代
クラブ
バスク地方のビスカヤ県バサウリに生まれた。1939年1月15日、ビスカヤ県選手権(英語版)のSDエランディオ・クラブ(英語版)戦で公式戦デビューした。この時のガインサはまだ16歳7か月18日であり、1914年にデビューしたドミンゴ・アセドに次いでクラブ史上2番目の年少出場記録となった。なお、2009年にはイケル・ムニアインがガインサの記録を塗り替えており[3]、ガインサの記録はクラブ史上3番目の年少出場記録となった。1940年10月13日のエルクレスCF戦でプリメーラ・ディビシオンデビューした。
20歳だった1942-43シーズンには初めて二桁得点(10点)を記録し、プリメーラ・ディビシオンとコパ・デル・ヘネラリシモとの2冠を達成した[1]。コパ・デル・ヘネラリシモでは1944-45シーズンまで3連覇している[1]。1948-49シーズンにも二桁得点を記録し、三度目の二桁得点を記録した1949-50シーズンにはコパ・デル・ヘネラリシモで4度目の優勝を果たした[1]。1954-55シーズンにはコパ・デル・ヘネラリシモで5度目の優勝を記録し、1955-56シーズンには13年ぶりにリーグ&カップの2冠を達成した[1]。ガインサと一緒にプレーした選手には、ラファエル・イリオンド(英語版)、ベナンシオ(英語版)、テルモ・サラ、ホセ・ルイス・パニーソなどがいる[4]。
36歳298日だった1959年3月にはセビリアFC戦で得点を記録しており、アスレティック・ビルバオの最年長得点記録を塗り替えた[5]。1958-59シーズン終了後、37歳の時に現役引退した。19シーズンにわたってアスレティック・ビルバオ一筋でプレーし、リーグ戦では380試合に出場して120得点を挙げた[6]。アスレティック・ビルバオでの公式戦の出場試合数は494試合にも上った。プリメーラ・ディビシオンで2回、コパ・デル・ヘネラリシモで7回、コパ・エバ・ドゥアルテで1回優勝しており、計10個のタイトルを獲得している。
コパ・デル・ヘネラリシモでは決勝戦に9回出場しているが、これはホセ・マリア・ベラウステと並んで最多出場記録である。コパ・デル・ヘネラリシモでは計99試合に出場しており、これは歴代最多出場記録である[6]。1947年のセルタ・デ・ビーゴとの準々決勝セカンドレグ(12-1で勝利)では8得点を挙げており、これは同大会における1試合個人最多得点記録である[7]。
スペイン代表
1945年3月11日のポルトガル代表との親善試合でスペイン代表デビューした。1950 FIFAワールドカップ・ブラジル大会欧州予選では2試合に出場[8]。1950年の本大会ではクラブ同様にキャプテンを務め、スペイン代表の5試合すべてに出場した[8]。スペイン代表は2次リーグで敗退したが、過去最高位の4位となった[8][2]。1954 FIFAワールドカップ・スイス大会欧州予選では2試合に出場した[8]。スペイン代表としては計33試合に出場して10得点を挙げた。
その後
1965年にはアスレティック・ビルバオの監督に就任。1965-66シーズンは14勝6分10敗で5位となった[9]。1966-67シーズンには11勝9分10敗で7位となった[10]。1967-68シーズンには11勝10分9敗でやはり7位となった[11]。1968-69シーズンは開幕から6試合で1勝1分4敗と低迷し[1]、6節を終えた時点で解任された。後任はかつてともにプレーしたラファエル・イリオンド(英語版)であり、イリオンドは1969年のコパ・デル・ヘネラリシモでアスレティック・ビルバオを優勝に導いている。
1995年1月6日、故郷のバサウリで死去した[4]。72歳だった[4]。1997年には彫刻家のホセ・マヌエル・アルベルディによってガインサの靴を模したブロンズ像が2体製作された。1体は故郷のバサウリ市内に展示され[12]、もう1体はアスレティック・ビルバオの練習施設であるレサマ(英語版)に展示されている[13]。
家族
兄のミゲル・ガインサ(スペイン語版)(1920-1986)もサッカー選手である。ミゲルは1944年から1949年までアスレティック・ビルバオで、1949年から1952年までバラカルドCFでプレーしており、アスレティック・ビルバオでは兄弟一緒にプレーした経験がある[14]。
タイトル
選手として
指導者として
脚注
関連項目
外部リンク