あすな ひろし(本名:矢野 高行[1](やの たかゆき)、1941年1月20日 - 2001年3月22日[1])は、日本の男性[1]漫画家。東京都生まれ[2][3]、6歳から18歳まで広島県呉市育ち[2][4]。広島県修道高等学校卒[1][2]。ペンネームの由来については「翌檜(あすなろ)の木」からという説がある。
東京で生まれ[2][3]、終戦間もない6歳の時、父の転勤で広島県呉市に移り住む[2][3]。原爆投下後の広島で多感な時期を過ごし、以降18歳まで広島で育った[2]。「山ゆかば」の物語は創作。姉の今中鏡子(広島市安佐南区在住、今中大介の母[5])は「弟は感受性が強かったから、被爆後の広島を見て、相当影響を受けていると思う」と話している[2]。放射能の脅威を伝える1971年の「赤いトマト」など反戦や原爆がテーマの作品も多い[2][3]。修道中学校・高等学校卒業後上京し[2]、東宝映画宣伝部、商業デザイン会社勤務を経て、1959年、「まぼろしの騎士」(少女クラブ冬の号)でデビュー。身長は170cm以上と当時としては高身長であり、体格も良かったので驚かれることがあった。
代表作といえるのが1976年「少年チャンピオン」で発表した『青い空を、白い雲がかけてった』[2]。連載は断続的だが5年間に及んだ。手塚治虫の『BLACK JACK』や水島新司の『ドカベン』などとともに同誌の黄金期の一翼を担った[2]。
少年誌・青年誌にも叙情を基本としながらも、時にはコミカルな作品を次々と発表した。流麗な描線とドラマチックな画面構成が特徴。創作は常に全力を注ぐ職人。ペンだけで描き、背景などに使う独特の模様「カケアミ」は「誰にもまねできない」と高く評された[2]。コピーライターの糸井重里は彼の作風を「真っ昼間の悲しさ」と評した。
劇画を描く際には「臼杵三郎」という名前で活動していた。その由来は、BSマンガ夜話出演時の高信太郎のコメントによれば、「大分の臼杵郡[注 1]出身で、好きな歌手が北島三郎だったから」である。ただし、あすなひろし公式サイトの記述では、「本籍が宮崎県西臼杵郡三ヶ所」とある。
飲酒しながら原稿を執筆しており、後年になると酒の量は増え、元アシスタントの高信太郎は「手が震えるらしい」と語っている[6]。
その後、私的なトラブルに伴い東京を離れ40歳半ばで、実家のある東広島市に帰る[2][7]。漫画よりも肉体労働に重点を置くようになり、晩年は非常に寡作になる[2]。2001年、肺癌のため死去[1]。享年60。
作中のペンタッチは非常に繊細で、修正の為のホワイトは使わず、スクリーントーンも極力使用しない、写植や文字の白抜きもほとんど全部自分が行っているほどの職人肌であった。
『とうちゃんのかわいいおヨメさん』(週刊少年ジャンプ)、『走れ!ボロ』(女学生の友)で1972年第18回小学館漫画賞受賞。
少女漫画、少年漫画、青年漫画、そしてジャンルもポエジー、ハードボイルド、西部劇、アクション物からギャグまで幅広い活躍をしたが、元々、単行本化された作品は少なく、それらもほとんど絶版となっていた。
2002年より「あすなひろし追悼公式サイト」が『あすなひろし作品選集』の刊行を開始した。今まで劣悪な印刷により表現され得なかったあすなの流麗な線が、B5判のしっかりした印刷で再現されている。
また、2004年にはエンターブレインが『青い空を、白い雲がかけてった』と『いつも春のよう』を刊行したことから、一般書店でも手に入るようになり再評価に弾みがついた。
2004年「NHK BSマンガ夜話第31弾」でも取り上げられる。
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